2022-09-13
ソウル特別市ソデムン区ヨンセロ一帯
新村(シンチョン)駅から延世大学まで続く「延世路(ヨンセロ)」は、街の中心にある大通りで、この道を中心に狭い路地が木の根のように張り巡らされています。
延世路は1999年、ソウル市より「歩きたい通り」に指定され、街路樹整備、新村の町マップなどの開発事業が行われてきました。飲食店、ファストフード店、カフェ、商店などが立ち並んでおり、午後になれば屋台の食べ物も楽しむことができます。延世大学前の道路を挟んだ向かい側には美しい壁絵などのアートが街を彩っています。
2024-02-29
テグ広域市トン区オッコルロ195-5
名品(ミョンプム)オッコル1616協同組合は、大邱(テグ)で一番古いオッコル村が運営する企業です。200年以上前に建てられた韓屋で宿泊できる韓屋ステイ、解説者と一緒に巡る村ツアー、韓国伝統文化(茶食(タシク)体験、韓服体験、書堂体験、餅つき、投壺、チェギチャギ、碑石打ち)、韓屋カフェで味わう伝統飲料が体験できます。
2024-10-22
チョンラナム道タミャン郡コソ面フサンギル103
全羅南道潭陽生態村後山里に位置する「鳴玉軒苑林」は朝鮮時代に呉希道(1583~1623)が暮らしていた家の庭園です。また、彼の四男である呉以井(1619~1655)が父の跡を継ぎここで書を読み多くの著述を残した別荘の地でもあります。
庭園の中に「鳴玉軒」を建て、前に四角の池を造り、周囲に花の木を植えるなど景観が美しいことからその名が知られています。鳴玉軒はこぢんまりとしたあずまやで、教育を受けさせるために建てられた建物です。ここを流れる水の音が、玉がぶつかりあって鳴る音のようであることから名付けられました。池の周囲には赤松やサルスベリなどが植えられており、池の上の小川のほとりには「鳴玉軒癸丑」の字が彫られた岩があります。
鳴玉軒苑林の右方には「後山里銀杏の木」あるいは仁祖大王繋馬杏と呼ばれるイチョウの木があります。樹齢300年以上の古木で仁祖が王になる前に全国を回る中で呉希道を見つけ、ここに来た際に乗ってきた馬をつないでおいたところと言われています。
鳴玉軒苑林は「瀟灑園」に次ぐ美しい民間庭園として、2009年に名勝に指定されました。
2024-09-20
全羅南道 潭陽郡 鳳山面 俛仰亭路 382-11
全羅南道記念物に指定されているあずまや「俛仰亭」は全羅南道潭陽郡、鳳山面斎月里斎峯山のふもとに位置しています。1533年に宗純が建てたもので、李滉(イファン)をはじめ多くの学者や文人が学問について討論した場所です。
2021-08-04
慶尚南道 居昌郡 渭川面 ウンハリキル2
慶尚南道居昌郡渭川面黄山里黄山集落の前の亀淵洞に位置する「捜勝台(ススンデ)」は、三国時代には新羅と百済の国境地帯であり、朝鮮時代には安義県に属していましたが、日帝強占期に行政区域の改編により居昌郡に編入されて今日に至ります。捜勝台は三国時代の百済と新羅が対立していた頃、百済から新羅に行く使臣を送別した所であり、初めは戻って来られないのではないかと心配していたので、心配するという意味の「愁」、送るという意味の「送」の字を使って愁送台(スソンデ)といいました。愁送台とは俗世間の気掛かりや心配を忘れるほどに景色が素晴らしい所という意味であり、仏教の名前に比喩されることもあります。その後、朝鮮中宗の時に楽水慎権が隠居して亀淵書堂をここに建立し、弟子たちを養成しました。台の形が亀のようであることから岩亀台といい、境内を亀淵洞といいました。今の名前は1543年に退渓李滉が安義県三洞を遊覧のために来た際に始まったものとされています。退渓李滉は馬利面迎勝里(マリミョン ヨンスンニ)に停まってその名の由来を聞きましたが、急務により帰還してここへ来ることはできず、名前が美しくないとして同じ音である「捜勝台」と直すことを勧める律詩を送り、楽水慎権が台の面に彫ったことから始まりました。境内には亀淵書院、祠宇、内三門、観水楼、典祠庁、楽水亭、涵養斉、旌閭、山高水長碑、遺跡碑、岩亀台などがあり、これらは儒林と居昌慎氏楽水一族が共同管理しています。松林と水と岩が調和して景色が素晴らしく、またチャゴ岩とその周辺には皐蘭草をはじめとする貴重植物が自生しています。
2024-09-20
江原道 洪川郡 東面 寿陀寺路 473
寿陀寺(スタサ)がある孔雀山(コンジャクサン)は標高887メートルの山で、山頂からは洪川郡(ホンチョングン)一帯が一望でき、孔雀が翼を広げた姿に似た山の形から孔雀山と命名されました。 また、洪川邑(ホンチョンウプ)からこの孔雀山を眺めると巨人が仰向けになって横たわっているようにも見えます。
春になるとチョルチュクと呼ばれるクロフネツツジが、秋には紅葉が大変美しい場所で、奇岩絶壁や盆栽の松のような形をした老松の群落や雪の積もった冬の孔雀山もまた絶景です。
寿陀寺から東面(トンミョン)魯川里(ノチョルリ)までおよそ12キロメートル続く寿陀寺渓谷には大きな岩盤やとても大きな沼があり秘境をなしており、また渓谷の両岸には奇岩絶壁や鬱蒼と生い茂る森も取り囲んでおり、渓谷の中で憩いのひとときを過ごしていると知らぬ間にこの孔雀山の魅力にはまってしまいます。
韓国百大名山にもなっている孔雀山の麓にある悠久の古刹・寿陀寺は新羅時代の第33代の王・聖徳王(ソンドクワン)の時代の聖徳王3(708)年に元暁(ウォニョ)大師により創建されたと伝えられており、大寂光殿の入母屋屋根や1364年に鋳造された銅鐘、三層石塔が現存しています。
また、宝物の月印釈譜をはじめ、大寂光殿、梵鐘、後仏幀画、紅藕堂浮屠など数多くの文化財を所蔵しており、寿陀寺は江原道西部・嶺西(ヨンソ)内陸地域における最高の古刹として名高い寺です。
2022-09-20
テグ広域市タルソン郡ファウォン邑インフン3ギル16
+82-53-668-3162
南平(ナムピョン)文氏(ムンシ)の中興の祖として知られる三憂堂(サムダン)文益漸(ムン・イクチョム)の子孫が大邱(テグ)の地に移り住んだのはおよそ500年前。そしてここ、現在の大邱広域市達城郡(タルソングン)の仁興(インフン)に定住したのはその18代目にあたる仁山斎(インサンジェ)文敬鎬(ムン・ギョンホ=1812~1874年)の時でした。
文敬鎬は文氏一族だけで村を作る計画を立て、元々、高麗時代の名刹・仁興寺(インフンサ)があった場所に居を構え、今日の仁興マウルの村を新たに作り上げたと言われています。
この先祖代々からの地に最初に建てられた建物は1820年前後に造られた斎室・龍湖斎(ヨンホジェ)で、現在の広居堂(クァンゴダン)のある場所にあたります。
邸宅として使い始めたのは1800年代後半で、当初は草葺屋根の建物でしたが、以降100年の歳月を経て今日の村が形作られました。
現在、およそ70軒あまりの瓦屋根の韓屋が村の中に整然と建ち並ぶこの村は、築200年未満の建物ではありますが、伝統的な慶尚道(キョンサンド)・嶺南(ヨンナム)地方の両班の家屋の形式を踏襲しており、村の作りと周囲の景観と相まって、他では見受けられない特徴ある村と言えるでしょう。
2022-12-26
キョンサンブク道キョンジュ市アンガン邑オクサンソウォンギル216-27
玉山書院(オクサンソウォン)は、朝鮮時代の性理学者・晦斎(フェジェ)李彦迪(イ・オンジョク)を祀るとともに儒学の後進育成のため1572(宣祖5)年に建立され、翌年には当時の王が書院の名を下賜した由緒ある書院です。この書院は、朝鮮後期、興宣大院君(フンソンデウォングン)による書院撤廃令の適用から免れた47の書院のうちのひとつで、それぞれの建造物の建築的意義は大きくありませんが、空間的な配置が特徴的で注目されています。玉山書院から北におよそ700メートル離れたところには晦斎・李彦迪が別荘兼書斎として使っていた独楽堂(トンナクタン)があります。
2022-09-16
カンウォン道ピョンチャン郡ポンピョン面ウォンギル里
韓国の短編文学の白眉と称えられる『蕎麦の花咲く頃』の舞台であり、可山・李孝石(イ・ヒョソク)が生まれ育ったところです。1990年度に文化観光部から「全国第1号文化村」に指定され、孝石文化村を舞台に毎年「孝石文化祭り」と呼ばれるお祭りが晩夏の8月末から9月初めに開催されます。
李孝石の生家、水車小屋、可山公園、李孝石記念館、蕎麦郷土資料館などがあり、小説の背景そのままの蕎麦の花が山腹を囲み咲き誇ります。毎年初秋に開催される孝石文化祭りは、文学と蕎麦を素材とした見どころ満載な内容となっており、素朴でテーマ性のある郷土色の濃い祭りとして多くの賛辞が寄せられています。祭り期間中は作品の舞台となる土地の踏査、全国孝石詩文コンテスト、ストリート民俗公演、作品中の主人公を演出する仮装行列、写真撮影大会、蕎麦の花咲く頃演劇、映画の公演などが行われます。蕎麦を使った代表的な食べ物としては蕎麦マッククス、蕎麦チヂミがあります。
2024-08-13
チョンラナム道ポソン郡トゥンニャン面ヨクチョンギル15-9
広州李氏の集姓村であり、得粮村とも呼ばれる宝城(ポソン)カンゴル村は五峰山、得粮湾と接しています。2012年に国家記録院の記録サラン村に選定された他、この村にある李錦載家屋、李容郁家屋、李湜來家屋と、悅話亭(亭子)は重要民俗資料に指定されています。村の中央に位置する李容郁家屋は朝鮮時代の両班家屋の典型を示す高柱大門(両脇にある建物の屋根よりも門柱を高くした正門)がありますが、塀によってサランマダン(サランチェ(客間)の前にある庭)が外から見えない独特の構造が目を引きます。こぢんまりした李湜來家屋は周りを竹林に囲まれ、人の住む家は藁ぶき、農機具や穀物を保管する納屋は瓦ぶきになっています。李錦載家屋の母屋は1900年前後に建てられ、その他の建物は20世紀初めに建てられたと推定される、三南地方(忠清南北道・全羅南北道・慶尚南北道)の典型的な両班の家です。村の裏にある森に位置する悅話亭は周囲の木々を生かして美しい空間を演出する伝統的な韓国造園の手法がよく保存されている他、亭子横の池が印象的です。
宝城カンゴル村では「伝統家屋での不便な一夜」特別体験ができます。現代の便利さを最大限排除した伝統的なトイレや井戸、かまどを使い火を焚くといった不便さは疲れた現代人の感情を純化させ、田舎ならではのあたたかみを感じさせてくれます。