2021-08-18
忠清南道 瑞山市 海美面 南門2路143
+82-41-661-8005
海美邑城(ヘミウプソン)は、朝鮮時代の代表的な邑城に挙げられています。邑城とは、邑を囲んで建てられた平地城で、海美邑城以外にも高敞邑城、楽安邑城などが有名です。海美邑城は1491年に完成した石城で、周囲約1.8キロメートル、高さ5メートル、総面積196,381平方メートル(約6万坪)の大きな城で、東、南、西に3つの門楼を持っています。最近復元作業が進められ、社稷公園が造成されました。この地は、朝鮮末期のカトリック信者の殉教聖地として有名な場所です。カトリック迫害当時、官庁があった海美邑城では忠清道の各地域で多くの信者が捕まり拷問を受けて殺されました。時に1866年の迫害の際には、1,000人余りががこの地で処刑されたといわれています。城内の広場には大院君執政当時に逮捕されたカトリック信者が監禁されていた監獄址や、木の枝にぶら下げられてひどい拷問を受けたエンジュの木が立っています。城門の外の道路沿いには、エンジュの木にぶら下げられて拷問を受けながらも、屈しなかった信者を石の上に強く打ちつけて殺害した時に使われたという縄で縛られた石があり、カトリック信者の巡礼地となっています。城壁の周囲にはカラタチの木を植え、城を敵の兵士から守ったといわれていますが、現在はほとんどその姿を見ることができなくなりました。
2023-01-18
キョンサンブク道キョンジュ市キョ洞
瞻星台と月城の間に位置しており、史跡に指定されています。慶州金氏の始祖、閼智が誕生したという伝説がある由緒ある場所で、このような話が残されています。新羅脱解王の時に、瓠公がこの林の中で鶏の鳴き声を耳にしたので、声が聞こえる方に近寄ってみると、木の枝に金の装飾がほどこされた櫃が引っかかって、光を放っていました。このことを王に話すと、王は自ら林へ行き櫃を下ろし、ふたを開けると中から男の子が出てきたので、この子の姓を金、名前を閼智とつけ、もともと始林、鳩林と呼ばれていたこの林のことを「鶏林(キェリム)」と呼ぶようになったと伝えられています。鶏林は、新羅の国号としても使われました。丸く広がっている林には、ケヤキの木などの古木が鬱蒼と茂っており、北から西にかけては小川が流れています。王は閼智を皇太子に任命しましたが、後に朴氏王族である婆娑王に王位が継承されたため、王位に就くことはできませんでした。後の時代、奈勿王の時より新羅金氏が王族となりました。境内にある碑は1803年に建てられたもので、金閼智誕生についての記録が刻まれています。大陵苑-鶏林-半月城と続く散策路の周辺には春になると黄色いアブラナが咲き、趣を一層深めてくれます。
2024-09-24
慶尚北道 慶州市 臨海路64-19
「皇龍寺址(ファンリョンサジ)」は慶州市九黄(クファン)洞に位置しており、芬皇寺の前に広がる広大な敷地に残されている遺跡です。
ここは新羅最大の寺院であり、護国の大寺刹として古新羅の仏教文化の精髄が見られる由緒深い寺刹址です。善徳女王がこの地に塔を建ててから23年後、新羅は三国統一し、このことから多くの人々が「新羅の三国統一はこの塔の霊験である」と歴史書に記録しています。かつて新羅三宝と呼ばれる宝物のうちの2つである金堂三尊丈六像、九層木塔が皇龍寺に所蔵されており、また新羅最大の鐘も置かれていましたが、蒙古軍の侵攻によって失ってしまいました。皇龍寺は慈蔵や元曉などの新羅時代の最高の高僧たちが説法を説いた場所で、真興、真平、善徳、憲康、真聖女王などの帝王たちが自ら彼らの説法を聞くために訪れました。1969年7月にこの地を発掘調査した際、金堂、講堂、塔地が発掘されたことをはじめとし、1976年3月から8年間に渡る発掘作業により独特の配置を持つ一塔三金堂式だったことが明らかになり、4万点余りの遺物が出土しました。この際、建物の基礎となる土台をはじめとする下部構造は確認されましたが、建物の上部家具材は正確に考証することができないため、建物全体の復元には至っておらず、土台部分だけが復元されました。発掘された遺跡地から現れた寺院の総面積は8,800坪に至り、これは仏国寺の約8倍の広さに相当します。現在、皇龍寺址は史跡に指定されています。
2024-10-16
忠清南道 牙山市 仁州面 貢税里聖堂キル10
+82-41-533-8181
「貢税里聖堂(コンセリソンダン)」は、牙山湾と揷橋川に挟まれた仁州面貢税里の丘の上に建てられたカトリック大田教区の本堂です。初期の宣教師はこの付近から上陸し布教を始め1894年に教会が作られましたが、最初は民家を教会として使用していました。その後1897年に司祭館が建てられ、1922年に本堂が完工し忠清南道で初の本堂となり、公州、安城、温陽、屯浦の各本堂はここから分かれたものです。
敷地には丙寅迫害で殉教した3人の墓地、広さ130坪の本堂と司祭館、避静の家、和合室などがあるほか、樹齢数百年を数える欅の木をはじめとした木々が育っていてとても美しいカトリック教会となっています。
朝鮮時代、貢税里には牙山、瑞山、韓山をはじめ清州、玉川など39の郡の租税を集めソウルに漕運船を利用して送る貢税の番(コンセコッコジ)という役人がいました。
2021-11-22
忠清南道 天安市 東南区 広徳面 広徳寺キル30
広徳寺(クァンドクサ)は新羅の善徳女王の時代(637年)に慈蔵律師が創建し、興徳王の時(832年)に珍山和尚により再建されました。牙山市と天安市の境界になっている広徳山(699.3メートル)の東南方向、太華山(455.5メートル)の西南側の山裾にあります。一柱門の表側には「太華山広徳寺」、裏側には「湖西第一禅院」と書かれた扁額がかかっていて僧の禅の修行道場であることを示していますが、それはひっそりとした雰囲気からも感じられることでしょう。朝鮮時代初期に第7代の王である世祖が病を治すべく通ったとも伝えられていて、壬辰倭乱以前は忠清、京畿地域で最も大きな寺の1つとして数えられるほどの勢力を誇っていました。しかし壬辰倭乱で寺は焼失してしまい、現在かつての栄華を直接確認することはできません。大雄殿、冥府殿、千仏殿など大部分の建物は近年になって再建されたものです。
大雄殿の近くにある宝華楼の前には樹齢数百年になるクルミの木が、また尞舎の隣にも大きなクルミの木があることから、広徳寺には古くからクルミの木が自生していたことがうかがわれます。
境内は品良く整備されています。特に参道横を流れる渓流のそばには高名な僧である法頂の手による「無所有」ということば書かれた立札が立っています。「私たちの目標は豊に所有することではなく、豊に存在することである。生の量が問題なのではなく、生の質こそを問わねばならない」という一節が広徳寺を訪ねる人びとの心をきれいにしてくれます。
2024-03-15
チュンチョンナム道チョナン市トンナム区カグォンサギル245
+82-41-561-3545
覚願寺(カグォンサ)は、天安・太祖山(チョナン・テジョサン)の中腹に位置する寺院で、韓半島の平和統一を願って建てられたといわれています。最大の見どころは、青銅で作られた高さ15メートル・周囲30メートル・重さ60トンの阿弥陀如来坐像で、韓国の寺院の中で最大の大雄殿もあります。開山記念館は、この寺院の遺物が保存・展示されている場所です。
2024-04-08
チョンブク特別自治道キムジェ市クムサン面モアク15ギル1
母岳山(モアクサン)道立公園の入口にそびえ立つ金山寺は百済法王元年(599)に創建され、776年に真表律師が改築して大伽藍の体裁を備えました。境内には国宝に指定されている弥勒殿をはじめ指定文化財約10点があり、それ以外にも付属建物が多く、湖南地方随一の古寺に数えられています。木造の弥勒殿は韓国唯一の三層法堂で、外からは三階建てに見えますが中は吹き抜けになっています。春には山の入口から金山寺まで見事に咲いた桜を見に各地から集まってくる観光客で賑わいます。また、真冬でも信者が弥勒殿の弥勒菩薩像を訪ねて拝んだり、塔の周りをぐるぐる回ったりする姿を見ることができます。弥勒殿の弥勒菩薩像は屋内の立像としては世界最大とされ、三尊仏のうち中央の弥勒仏像が高さ11.82メートル、左右の仏像は高さ8.8メートルにもなります。1999年に開山1400周年を記念して建てられた1400周年記念館では、様々な文化イベントが開催されます。
主要文化財:弥勒殿(国宝)、露柱(宝物)、石蓮台(宝物)、慧徳王師真応塔碑(宝物)、金山寺五層石塔(宝物)、金山寺方等戒檀(宝物)、金山寺六角多層石塔(宝物)、金山寺幢竿支柱(宝物)、深源庵北崗三層石塔(宝物)、金山寺大蔵殿(宝物)、金山寺石燈(宝物)
2020-10-28
全羅南道 麗水市 三山面 巨文里
麗水の「白島(ペクト)」は、巨文島(コムンド)から東に28キロメートルのところに浮かぶ39の無人の島々で、大きく上白島と下白島に区分されています。多くの奇岩や絶壁があり、鷹岩、夫岩、兄弟岩、石仏岩などにはさまざまな伝説が伝わっています。天然記念物の黒鳩を始め、30数種類の鳥類が生息しており、風蘭、石斛、雪伊吹、椿、ホオノキなどの亜熱帯植物を含む353種類の植物分布が見られます。年平均海水温度は16.3度でオオアカサンゴ、ハナサンゴ、海綿など、170数種類の海洋生物が生息しています。白島は無人島で、生態保存のため上陸は禁止されており、遊覧船で島を一周しながら絶景を観賞することができます。
2024-04-07
チョンブク特別自治道 麗水市 三山面 巨文キル103
「巨文島(コムンド)」は古島、東島、西島の3つの島からなっていて、かつては三島とも呼ばれました。西島の秀月山のふもとに広がる海の中に長さ30メートルほどの男根の形をした岩があって、その岩の力で優れた儒学者が誕生したと伝えられ、そこからこの岩を「文筆岩」と呼ぶようになったとされています。また清(中国)の提督の丁汝昌がこの島に立ち寄った際、金劉(キム・ユ)という儒学者と筆談をしたのですが、金劉の文章力に驚嘆したところから巨文島という名前がついたと伝わっています。
見どころとしては、樹齢数百年の秀月山の椿林、南海側随一の絶景である白島(ペクト)等の美しい観光地と、英国軍墓地、儒学者の金劉をたたえる巨文祠、金洋禄(キム・ヤンロク)をたたえる西島祠などの歴史遺跡があります。その他、秀月山南麓には韓国初(1905年4月完成)の灯台であり、東洋最大の巨文島灯台があります。
周辺の海域は魚の群れが見えるほど透明で、特に漁の最盛期には各地から漁船が集まり不夜城のようになります。またこのあたりの島々は釣り場として知られていて夏には海水浴と釣りを一度に楽しもうと島外からたくさんの人が訪れます。
2022-12-28
全羅南道 麗水市 突山邑 向日庵路60
文化財資料「向日庵(ヒャンイラム )」は、4大観音祈祷所の一つで、644年百済の義慈王4年に新羅の元暁大師が創建し円通庵(ウォントンアム)と名づけたのがはじまりです。
その後、高麗時代の光宗9年(958年)にユンピル大師が金鰲庵(クモアム)、朝鮮時代の粛宗41年(1715年)にインムク大師が向日庵と改称しました。
大雄殿、三聖閣、観音殿、龍王殿、鐘閣、海水観音像を復元・新築し、寺院としての基本的な施設を備えていましたが、2009年12月20日の火災により大雄殿、宗務所(霊亀庵)、鐘閣が焼失してしまいました。しかし、焼失したこれらも2012年5月6日に復元されました。
向日庵への山道はやや険しく、中間地点にある券売所を通り過ぎると階段と平坦な道をぐるぐる回りながら上へと登っていく道が続いています。 また寺の付近では、家ほどの大きさの2つの岩によりできた石の門を通過することになりますが、ここは他の寺でいうところの不二門にあたります。南海の水平線に見える日の出が大変すばらしいことから向日庵と呼ばれていますが、周囲の岩の形が亀の甲羅のように見えることから霊亀庵とも呼ばれています。