8.6Km 2024-04-24
ソウル特別市チュン区トェゲロ105 2階(チュンムロ1ガ)
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8.6Km 2024-03-11
ソウル特別市チュン区ミョンドン2ギル52
明洞(ミョンドン)栄養センターは、明洞のローストチキンとサムゲタン専門店です。ローストチキンは油を程よくカットして淡泊で肉質がよく、からりと焼いたチキンの皮はその味が格別です。お酢に漬けた大根も欠かせないおかずです。サムゲタンもあり、ランチスペシャルのローストチキン定食はローストチキンとチキンスープ、栄養パン、野菜で構成されます。
8.6Km 2021-04-05
ソウル特別市 中区 ミョンドン2ギル54-1
+82-2-775-9292
1968年から営業している店です。おすすめはカルビです。ソウル特別市のジュン区に位置した韓食専門店です。
8.6Km 2024-03-12
ソウル特別市チュン区ソゴンロ70 地下2階
+82-2-6450-5600
切手博物館は、切手文化を奨励する目的で開館した博物館です。時代の流れに応じて多様なテーマと種類の切手の歴史を一目で確認することができます。主要施設としては郵政歴史マダン(広場)、切手体験マダン、切手情報マダン、切手文化教室があります。週末には事前予約が必要で、ホームページから予約できるようになっています。
8.6Km 2021-03-31
ソウル特別市 中区 明洞8ナキル 37
+82-2-3789-6939
ソウル特別市のミョン洞に位置した韓食です。韓国のチキンBBQが味わえるお店です。代表的なメニューはタッカルビです。
8.6Km 2021-03-31
ソウル特別市 中区 退渓路20キル 21
+82-2-3789-9721
地元の人もよく訪れる明洞の隠れた名店です。おすすめはサムギョプサルです。ソウル特別市のジュン区に位置した韓食専門店です。
8.6Km 2021-02-19
ソウル特別市 広津区 陵洞路 238
各種災難や災害から不特定多数への災害対策能力を高め、安全意識を培っていけるようにバーチャル災害体験施設の必要性を定義し、安全体験館の建設が推進されました。
クァンナル安全体験館は地下1階・地上3階、延面積5,444.5平方メートル規模で、1階は自然災害体験スペースとして、オリエンテーション、風水害体験、地震体験、防災クイズなどで構成されます。2階は人為災害体験スペースとして、煙気避難、消火器体験、応急救助体験(心肺蘇生術)、119通報実習などで構成されます。3階は、応急救助体験スペースとして応急救助体験、映像館、専門体験、ソウル市5大災害事例や、地下1階のライド映像館など、全部で約20種類の体験コーナーを設置しており市民がバーチャル災害を体験し、各種事故の危険性を事前に予防および対処する方法を身近に楽しく体験できるようになっています。
各種体験施設を通じてスタッフ(消防員など)による説明とともに、実際に体験してみることで子どもや青少年および市民が実生活で危機に直面した場合でも適切に対処できる手段を会得し、災難や災害に対して自らが対処できる能力を育みます。
利用案内教育:すべての訪問客は体験前に1階オリエンテーションルームにて安全教育および注意事項などの教育を実施
8.6Km 2021-03-31
ソウル特別市 中区 退渓路20キル 29
+82-2-753-7271
ワインで熟成させたサムギョプサル(三枚肉)をご用意しております。おすすめはワイン漬けサムギョプサルです。ソウル特別市のミョン洞に位置したバーベキュー専門店です。
8.6Km 2024-06-19
ソウル特別市チュン区セジョンデロ99
史跡・徳寿宮(トクスグン)は、元々王宮ではなく、成宗(ソンジョン=1457~1494年・在位:1469~1494年)の兄にあたる月山大君(ウォルサンデグン=1454~1488年)の住居として使われていました。
1592年壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)により王宮が全焼し、翌1593年、仮の王宮・行宮(ヘングン=離宮)として使われるようになりました。 壬辰倭乱により朝鮮時代第14代の王・宣祖(ソンジョ=1552~1608年・在位:1567~1608年)が都を離れ義州(ウィジュ)に避難、その後、漢陽(ハニャン=現在のソウル)へ戻ってくると、居をここ徳寿宮に構えました。 宣祖の後を継ぐ第15代の王・光海君(クァンヘグン=1575~1641年・在位:1608~1623年)は、1608年行宮となっていたこの場所で即位、1611年この行宮を慶運宮(キョンウングン)と改称し、以降7年間にわたり王宮として使っていました。しかし1615年になると、昌徳宮(チャンドックン)に居を移し、それ以降は270年に渡り、離宮として使われることになります。
朝鮮王朝第26代の王で大韓帝国時代には皇帝でもあった高宗(コジョン)(1852~1919年・在位:1863~1907年)が1896年2月からおよそ1年間、ロシア公館に一時身を寄せ、翌年、王宮に戻ってきましたが、その王宮がこの場所で、以降この場所が再び王宮として利用されることになりました。
高宗が再び王宮として使うようになり王宮の名称も再び慶運宮と呼ばれるようになり、その規模も拡大しました。そして、高宗皇帝は1907年、朝鮮王朝第27代の王・純宗(スンジョン=1874~1926年・在位:1907~1910年)に譲位した後も引き続きここに住み続け、王宮の機能は昌徳宮へと移りました。
引き続き、慶運宮に住むこととなった高宗ですが、高宗の長寿を願って、名称を徳寿宮と改称しました。
このような経緯があったことから現在、元々の慶運宮という名称を使うべきであるという声も上がっています。徳寿宮には過去、数多くの建物が存在していましたが、18,635坪(約6.2ヘクタール)の敷地に残っているのは、大漢門(テハンムン)、中和殿(チュンファジョン)、光明門(クァンミョンムン)、昔御堂(ソゴダン)、浚明堂(チュンミョンダン)、即阼堂(チュクチョダン)、咸寧殿(ムニョンジョン)、徳弘殿(トコンジョン)、そして石造殿など一部にすぎません。
徳寿宮は、特に朝鮮時代末期から大韓帝国時代にかけての旧韓末の悲運の皇帝・高宗が日帝の圧迫により譲位を強要され、恨(ハン)に満ちた余生を送り、1919年1月22日、徳寿宮の咸寧殿で日帝により毒殺されたと人々に伝えられ、翌々月の3月3日に予定されていた高宗の葬儀の直前の3月1日に起きた3・1独立運動の直接的な引き金となった現場でもあります。
* 大漢門 -大漢門は現在では徳寿宮の正門となっています。元々の名称は大安門(テアンムン)で、王宮の東門として使われていました。この大安門は1906年に再建され「大漢門」という名称がつけられました。扁額の文字は当時、漢城府(ハンソンブ=現在のソウル)判尹(パニュン=漢城府の長)を務めた南廷哲(ナム・ジョンチョル)によるものです。
* 光明門 -光明門は王の寝殿・咸寧殿の正門で、光武(クァンム)8(1904)年の大火により焼失したものを、同年再建したものです。1938年、石造殿を美術館として使い始め、貞洞(チョンドン)にあった興天寺(フンチョンサ)の梵鐘や昌徳宮の報漏閣(ポルガク)にあった自撃漏(チャギョンヌ)を現在の場所へ移した際に光明門も同時に移築して現在のところに建て直しました。
* 石造殿 -大韓帝国時代、外国の使節と接見した場所です。光武4(1900)年着工、隆熙(ユンヒ)3(1909)年完成した石造の建物で、朝鮮王朝で最後に建てられた大規模建造物です。建物の外観は十九世紀初めの欧州で流行していた新古典主義様式に倣ったもので、正面にある柱の上部にはイオニア様式で施しており、室内はロココ調の装飾がなされています。建物は3階建てで、1階には接見場所が、半地下階には侍従らの控室の場所として使われ、2階には皇帝のスペースとなっていました。植民地支配が終わりを告げた1945年の光復(クァンボク)以降は米ソ共同委員会会議場、国立博物館、国立現代美術館、宮中遺物展示館などとして利用されました。
* 咸寧殿 - 宝物に指定されている咸寧殿は1897年に建てられ、高宗皇帝が居を構えた建物として知られています。1904年の火災により焼失しましたが、同年建て直し現在に至っています。高宗皇帝は1919年1月21日この咸寧殿で薨去しました。その後使われなくなった咸寧殿に当時使われていた家具、書画、什器などを配置し、およそ100年前の王宮での暮らしぶりを改めて再現しました。
* 中和殿 - 大韓帝国の正殿として使われ、朝鮮王朝第26代の王・高宗の近代国家建設に懸ける自信が垣間見れる建物です。特に正殿内には御座の真上の天蓋を見ると、龍が二匹描かれているのが確認できますが、これは正殿の天井の龍のような模様となっており、徳寿宮が大韓帝国皇帝の皇宮であったことを感じされます。 現在残っている中和殿は1902年に重層の建物として建てられましたが、1904年の火災で焼失、その後1906年に平屋造りの建物で重建されました。
* 重明殿 - 重明殿(チュンミョンジョン)はロシアの建築家サバティ(Seredin Sabatin)の設計により1897年から1901年にかけて建築された皇室図書館です。地下1階を含む二階建ての西洋式の建物で、当初は漱玉軒(スオゴン)と呼ばれていました。2009年12月に復元され、2010年8月からは展示館「大韓帝国の運命をかけた場所、徳寿宮重明殿」として一般に公開されました。
* この他、昔御堂、浚明堂、即阼堂、静観軒(チョングァノン)、徳弘殿、報漏閣自撃漏などがあります。