.0M 7462 2018-07-19
ソウル特別市 江南区 南部循環路 3318
ごみのアップグレードプロジェクト
ソウル資源回収施設では廃棄物を燃焼する過程で生み出される廃熱で電気を作ります。代替エネルギー開発は環境、そして経済的に大変重要なもので、教育テーマとしても最適です。
ソウルには江南、蘆原、陽川、麻浦の4ヶ所に資源回収施設(ごみ回収・焼却施設)があり、見学や特別講座、体験プログラムに参加することができます。
691.9M 38 2024-08-05
ソウルトゥクピョルシ カンナムグ ケポロ118(ベクシブパル)ギル 64
+82-10-3908-1617
「イェボンノジブ」は、一戸建てで、1階の全体をゲストハウスとして運営しています。部屋2室とリビング、キッチン、トイレ2つを含む空間が一つの客室として提供され、満足度が高く、海外の同胞やカナダ、アメリカ、ロシア、オランダなどの様々な国の旅行客が好んで訪れます。あちこちに配置された100年以上の古家具、ザゲジャン、手編みの覆いなどは、韓国の趣と文化を伝えています。江南に位置しているのでアクセスが良いです。
991.4M 29332 2020-01-08
ソウル特別市 江南区 栗峴洞
炭川(タンチョン)は、京畿道(キョンギド)龍仁市(ヨンインシ)・城南市(ソンナムシ)を流れ、ソウル特別市を経て漢江(ハンガン)に注ぐ漢江の支流のひとつで、流域面積302平方キロメートル、総延長35.6kmに達する準用河川です。
炭川の中流域にある城南市は、市の中心部を流れる25kmの炭川流域とともに開発が進む地域です。炭川を蘇らせる汎市民連帯では、市民の環境保護意識を高め、これを実践に移せるよう、炭川の汚染の実態を調査・分析、それをもとに対策を提案していく活動を行っています。また同時に、炭川を自浄能力がある「自然型河川」にし、子どもたちが心置きなく遊べる河川へと生まれ変わらせることを目標に1999年6月20日、八つの民間環境団体を発足させました。
炭川と呼ばれるようになったのには浄水のため炭を川に入れた、朝鮮時代にこの川の住んでいた南怡(ナミ)将軍の子孫の人物の号に炭の字が入っておりその場所の地名・炭里(タルリ)に由来するなど諸説ありますが、このような言い伝えも残っています。
ある日、閻魔(えんま)様が冥土の使者に十八万年を生きたという東方朔(とうほうさく=中国前漢の文学者。伝説で非常に長寿であったとされている人物)を捕まえてくることを命じました。
しかし東方朔は姿を隠すことにかけては誰にも引けをとらず、冥土の使者も、なすすべがなくなかなか探し出すことができません。
困り果てた冥土の使者は謀をめぐらしこの川の近くで歯が白くなるという理由をつけて炭をしゃぶる奇行に出ました。すると、この使者の不思議な姿を見たある通りがかりの人が 「自分が十八万年も生きているが、こんな風に炭をしゃぶっている人間は初めて見た」と使者に語ったことから、冥土の使者はその人物が十八万年生きたという東方朔であることを見破り捕まえて、閻魔様がいる冥土へと連れて行くことができました。
その時から炭の川という意味の純粋な韓国語「スンネ」あるいは同じ意味の漢字表現・炭川と呼ぶようになったということです。
1.1Km 21299 2024-03-07
ソウル特別市カンナム区クァンピョンロ205
必敬斎(ピルギョンジェ)は、本格的な韓国の宮廷料理が味わえる専門店で、アワビ粥、ポサム、牛肉チャプチェ、粗挽きカルビ焼き、韓牛のユッケなどのコース料理が堪能できます。全部で5種類の定食コースがあり、ランチは5種類から、ディナーは3種類から選ぶことができます。朝鮮時代の伝統家屋と庭園が備えられたお店で、食事を楽しみながら韓国の風情を感じることができます。電話で予約を受け付けています。
1.3Km 2233 2021-02-05
ソウル特別市 松坡区 三田路 67
+82-2-421-2761
ソウル特別市松坡区蚕室洞に位置する蚕室(チャムシル)観光ホテルは、ソウル都心空港ターミナル、COEX、蚕室オリンピック主競技場、ロッテワールドなどに隣接しており便利です。
1.3Km 34783 2024-09-23
ソウル特別市 松坡区 可楽路7キル21
+82-2-421-0970
ソウル石村洞古墳群の石積塚は、蚕室(チャムシル)地区開発事業の過程で発掘調査が行われた発見された古墳群です。
破壊の度合いがひどく全体的な規模は確認できませんが、第三号墳は紀元前後から登場する高句麗(コグリョ)の墓の形式である基壇式積石塚となっています。この古墳は小高い地形を平坦に整地し下の縁には大変大きく長い石を囲い、自然石で階段状に積み重ね三段構造となっており、古の高句麗地域であった旧満州(現・中国北東部)の通溝にある将軍塚に匹敵する大きなもので、規模は東西49.6メートル、南北43.7メートル、高さ4メートルを誇ります。従ってこの古墳は高句麗の人々が南方へ移動し、漢江(ハンガン)流域に百済を築いた初期の権力者の墓と思われます。第四号墳は正方形で、第三号墳とその築造方式が大変酷似した積石塚です。ここからも百済初期の軟質土器のかけらが多く出土し、この古墳の周囲では金で作られた細環式耳飾も1点発見されています。第五号墳は完全には発掘・調査されず、墓閣の構造と遺物に関してははっきりとはわかりませんが、ほぼ可楽洞(カラクドン)第一・第二号墳と同じ構造と推定されます。これらの古墳群のうち、史跡に指定されたのは第三号墳及び第四号墳の積石塚です。
百済時代の初期の墓と推定されるこの積石塚は百済が最も完成した四世紀ごろの対外関係あるいは三国時代の文化研究に大変貴重な意味を持つ古墳です。高句麗の積石塚と比べると、その規模や完成度において大差ないことから、三国時代初期の百済が隆盛なしていたことをを示すのと同時に、百済の支配層が高句麗の流れを汲む系統であることも推測できます。