4.5Km 2024-05-17
ソウル特別市チョンノ区インサドンギル62
仁寺洞(インサドン)は都会にありながら昔ながらの韓国の伝統を感じることのできる空間です。仁寺洞には大通りを中心に路地が迷路のように張り巡らされており、画廊、伝統工芸店、古美術店、伝統茶屋、伝統飲食店、カフェなどが所狭しと軒を連ねています。仁寺洞のお店はそれぞれ独特な趣があり、若者をはじめ中高年にいたるまで人気があります。
4.5Km 2021-09-17
ソウル特別市 鐘路区 鐘路63カキル31
「妙覚寺(ミョガクサ)」は、ソウルの中心、鐘路区崇仁洞にある駱山の東側に位置する大韓仏教観音宗の総本山です。1930年5月、泓宣和尚が創建し、これまでに2回増築・改築されました。
現在の場所にお寺を建てるとソウルの街が平和になり、市民の生活に安定をもたらすという風水地理学の説によりこの場所が選ばれたと言われています。2002年の世界ワールドカップから伝統仏教文化のテンプルステイが体験できるお寺に指定され、都心の伝統寺院として多くの観光客から人気を集めています。
4.5Km 2024-03-05
ソウル特別市チョンノ区サミルデロ464
景福宮(キョンボックン)の近くにある雲峴宮(ウンヒョングン)は、朝鮮の王族が住んでいたところです。朝鮮(1392~1897)の王で後に大韓帝国(1897~1910)の初代皇帝となった高宗(コジョン)の生家で、その父である興宣大院君(フンソンテウォングン)の邸宅でした。建物としては老安堂(ノアンダン)、老楽堂(ノラクタン)、二老堂(イロダン)などがあり、伝統婚礼を挙げたり伝統文化を体験したりできます。展示館では朝鮮時代の遺物を見ることができます。
4.5Km 2021-04-07
ソウル特別市 鐘路区 仁寺洞キル34-1
仁寺アートプラザは、韓国伝統文化の全てに触れることのできる大型プラザで、韓国を代表する職人らが製作した伝統工芸品をはじめ、装飾用および生活陶磁器、漆器、韓紙工芸品、銀、真珠、水晶アクセサリー、各種携帯ストラップ、コクタン製箸、韓服香袋、甘露茶、伝統餅、伝統香などに至るまで、良質な製品を豊富に取り揃えており、手頃な価格で購入できます。
4.5Km 2021-04-06
ソウル特別市 瑞草区 サピョンデロ22ギル41
+82-2-593-2340
ソレ村初のイタリアンレストランです。代表的なメニューはパスタです。ソウル特別市のソチョ区に位置した洋食専門店です。
4.5Km 2023-07-12
ソウル特別市チョンノ区チャンギョングンロ185
昌慶宮(チャンギョングン)は世宗大王(セジョンテワン)が王位を退位し上王となった太宗を迎えるため、1418年建てた寿康宮(スガングン)がその始まりです。以降、朝鮮王朝第9代の王・成宗(ソンジョン)の施政になり、第7代の王・世祖(セジョ)の后・貞熹王后(チョンヒワンフ)、世祖の子で即位することなくこの世を去った徳宗(トクチョン)の后・昭恵王后(ソヘワンフ)、第8代の王・睿宗(イェジョン)の后・安順王后(アンスンワンフ)を迎えるために明政殿(ミョンジョンジョン)、文政殿(ムンジョンジョン)、通明殿(トンミョンジョン)を建て、昌慶宮と命名されました。
昌慶宮には辛い歴史が数多くあります。壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)の時には建物が全焼し、 李适(イ・グァル)の乱や丙子胡乱(丙子の乱)の時にも禍を受けました。朝鮮王朝第19代の王・粛宗(スクチョン)の時代の仁顯王后(イニョンワンフ)と張禧嬪(チャン・ヒビン)、朝鮮王朝第21代の王・英祖(ヨンジョ)の時代、英祖の次男で米櫃に閉じ込められ死に至らしめられた思悼世子(サドセジャ)の逸話などが昌慶宮に残されています。
史跡第123号・昌慶応宮は日帝強占期に日帝により昌慶苑に格下げされ、動物園になってしまいましたが、日帝の残滓をなくすべく韓国国民の努力により1987年から古の本来の王宮の姿を取り戻しました。
弘化門(ホンファムン)、朝鮮王朝の正殿の中で最も古い建物である明政殿(ミョンジョンジョン)、通明殿(トンミョンジョン)、養和堂(ヤンファダン)、春塘池(チュンダンチ)などがあり、陸橋を渡って宗廟(チョンミョ)とも行き来ができます。
主な文化財 - 弘化門(宝物)、 明政門(宝物)、明政殿(宝物)、通明殿(宝物)、玉川橋(オクチョンギョ宝物)
4.5Km 2022-12-26
ソウル特別市チョンノ区チャンギョングンロ185
「弘化門(ホンファムン)」は昌慶宮の正門に正面3間、側面2間の重層寄棟屋根で多包式で作られています。石造の基壇の上に、原型の礎石を置いており、門楼下層は両開きの板門が設置され、出入りできるようにし、上層は板床の楼が設置されています。大韓民国の宝物に指定されています。当初1484年に建てられましたが壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の際に焼失し、1616年に再建されました。