16.6Km 2024-02-16
キョンギ道ヤンジュ市チャンフン面ユウォンジロ406-9
シンフンレジャータウンは、季節によってウォーターワールド、スノーワールドを運営している複合レジャータウンです。夏のみ営業しているウォーターワールドは、水がきれいだと評判の場所です。カバナは400席あります。冬限定のスノーワールドでは、雪そり、氷上そり、ワカサギ釣り体験などができます。
16.7Km 2023-03-21
キョンギ道クァンジュ市ナムハンサンソン面ナムハンサンソンロ780ボンギル107-65
守御将台(守禦将台=スオジャンデ)は南漢山城(ナムハンサンソン)の西方にあります。将帥が指揮を執る「将台」が南漢山城に4つあり(南漢山城四将台)、ここはそのひとつです。守御将台は朝鮮時代の1624年から1626年にかけて軍事目的で建てられた楼閣です。守御将台とは要塞の防御を担う守御士(守禦士)が指揮・命令を行うところで、建立当時は単層の楼閣で「西将台(ソジャンデ)」と呼ばれ、1751年、首都を守るため、周囲の要塞で防衛の任に当たっていた地方官・留守(ユス)であった李箕鎮(イ・ギジン)が2階建ての楼閣に増築しました。当時、守御将台内には無忘楼(ムマンヌ)、建物正面の外側には守御将台と書かれた扁額が掛けられました。この守御将台は1636年、清が朝鮮に攻め込んできた丙子胡乱(ピョンジャホラン)の際、朝鮮王朝第16代の王・仁祖が自ら守御軍を指揮し、清のホンタイジ率いる12万の大軍と対峙し、45日間の抗戦に耐えた場所で、その後、三田渡(サムジョンド)で屈辱的な降伏をしました。
16.7Km 2023-12-29
キョンギ道ウィジョンブ市ホグクロ1309ボンギル7
店名に「オデン」を冠していますが、実はプデチゲの専門店。1960年代から同じ場所で3代にわたって続いてきた店で、歴史は深く、もともとはおでんの屋台でしたが、近くの米軍部隊から手に入れた西洋の食材(ハム、ソーセージ、ベーコンなど)で炒め料理を出すようになり、それがご飯に合うスープ料理のチゲへと形を変え、プデチゲとして今日まで続いています。特有の味わいがあるスープに餅やインスタントラーメンなど韓国的な食材も加わり、絶妙な味のハーモニーを奏でます。有名店なだけに客も多いのですが、回転率が良く店員の応対もテキパキしているので、ピークタイム(平日のランチタイムや夕方、週末)を除けばあまり待たずに利用可能です。近くに別館があり、5人以上のグループで行くと別館に案内されます。
16.7Km 2022-09-14
ソウル特別市ヤンチョン区アニャンチョンロ939
木洞(モクトン)運動場はスポーツの底辺拡大やアマチュア野球などの活性化を目的に建設された施設です。1989年、主競技場(陸上及びサッカー)、野球場(プロ野球及びアマチュア野球)、室内スケート場(スケートリンク及びアイスホッケー)のこけら落しを皮切りに、続いて2008年には多目的競技場(フットサル及び軟式野球)が完成、韓国の体育発展に大きな貢献をしている施設です。
主競技場は過去、韓国のプロサッカーリーグ・Kリーグ所属の富川SK、安養LGチーターズ、ナショナルリーグ所属のソウル市庁サッカー団のホームスタジアムとして利用されたこともあります。
室内スケートリンク場はアイスホッケーやフィギュアスケートなど各種スケート競技をはじめ、アイスバレー団の公演などさまざまなイベント会場としても利用されています。
中央広場に伝統遊びマダン(広場)があり、また室内には室内射撃練習場やフィットネスクラブなどもあり、地域住民の生活体育の場としても活用されています。
16.8Km 2023-12-29
キョンギ道ウィジョンブ市ホグクロ1309ボンギル7
プデチゲは部隊を意味する韓国語「プデ」と韓国の伝統料理「チゲ(土鍋や普通の鍋などに様々な材料を入れてスープと一緒に煮た料理)」が合わさった料理名。1950~60年代の韓国戦争(朝鮮戦争)後に米軍部隊から流れてきたハムやソーセージを野菜、春雨、インスタントラーメンなどと一緒に煮て食べたのが始まりです。料理の起源や由来は地域ごとに異なりますが、議政府では近くの米軍部隊から西洋の食材が手に入りやすかったので、これを入れて作るプデチゲが広まったということです。このような地域的特性が発展して今日の議政府プデチゲ屋通りが形成されました。元祖の「オデン食堂」をはじめプデチゲの店がいくつもでき、やがて特化通りとして整備されるほど、議政府のランドマークかつ観光スポットとして急浮上しています。
16.8Km 2024-03-20
キョンギ道クァチョン市マッケ洞
清渓山(チョンゲサン)は、ソウルの良才(ヤンジェ)洞、果川(クァチョン)市、城南(ソンナム)市、義王(ウィワン)市をまたぐ標高618メートルの山で、山頂に登ると、ソウルの都心と京畿(キョンギ)道の全景を一望することができます。多数の登山道が整備されており、初心者でも登りやすいコースもあります。秋には美しい紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れています。
16.9Km 2024-11-06
キョンギ道高陽市徳陽区権慄大路741-35
豆を直接ロースティングして作るコーヒーとクロッフルなどのデザートが美味しいカフェ。床面が高く自然な印象の木製の家具、タイルのカウンターなどが混ざり合い洗練された雰囲気が漂う。大きなフォールディングドアの外に見える景色がまるで一枚の絵画のように美しく自ずとカメラを向けたくなる。
16.9Km 2021-07-31
京畿道 楊州市 長興面 護国路 255-41
朝鮮時代の第11代の王・中宗(チュンジョン=1488~1544年・在位1506~1544年)の王妃(正室)端敬王后(タンギョンワンフ=1487~1557年)慎氏(シンシ)の陵です。
朝鮮時代第10代の王・燕山君(ヨンサングン=1476~1506年・在位:1494~1506年)治世の時代に左議政という高い官職にあり、その燕山君の次男である慎守勤(シン・スグン)の娘として生まれた端敬王后は、1499(燕山君5)年13歳という若さで晋城大君(チンソンテグン=後の中宗)と結婚、その後起きた反正(政変=中宗反正[チュンジョンパンジョン])により燕山君から王位を奪い、晋城大君が王位に就き中宗となると王妃となりました。
しかし政変の過程で政変を主導した勢力が、退位させられた燕山君の側近で端敬王后の父・慎守勤を殺害、その娘で王妃となった端敬王后は逆賊の娘ということですぐさま王妃の位を追われました。
その後、端敬王后は1557(明宗12)年にこの世を去り、一度は慎氏の墓に埋葬されましたが、1739(英祖15)年に復位され、廟号(贈名)を端敬、陵号を温陵(オンヌン)としそれ以降、端敬王后が眠る陵を温陵と呼ぶようになりました。
陵の裏手は曲垣で囲い、石羊(ソギャン)・石虎(ソコ)をそれぞれ1対、陵の左右に陵を守る形で配置、陵の手前には供え物などを置く平たい石・床石(サンソク)と墓前に建てる石灯篭・長明灯(チャンミョンドゥン)を設け、このほか陵の周囲には墓の両脇に建てられる一対の石柱・望柱石(マンチュソク)、文官の形をした文石(ムンソク)、馬の形とした馬石(マソク)なども建てられました。
動物の形の彫刻を半分に減らしているのは、妃陵として奉られた墓の先例に従ったものです。墓の下には祭祀を行う部屋(祭室)がありましたが、1970年に行われた道路拡張工事によりなくなってしまいました。