河東花開市場(하동 화개장터) - エリア情報 - 韓国旅行情報

河東花開市場(하동 화개장터)

17.3 Km    21909     2022-09-29

慶尚南道 河東郡 花開面 双磎路 15

花開市場(ファゲジャント)は韓国の五大市場のひとつで、全国のどの市場より多くの人が集まる場所です。作家・金東里(キム・トンニ)の小説「駅馬」の舞台でもある花開市場は、市場から桜並木に沿って上ったところにある智異山(チリサン)の双磎寺(サンゲサ)とともに、多くの観光客がやって来る場所です。また、クッパ、トトリムク(ドングリの実で作ったぜリー)、シジミ汁を出す食堂や、飲み屋、飴売りなどの特産品を扱う店のほか、鎌などの伝統農業器具や包丁などを即売しているお店も並んでいます。

カビウォンモーテル[韓国観光品質認証](가비원모텔[한국관광 품질인증]/Korea Quality)

カビウォンモーテル[韓国観光品質認証](가비원모텔[한국관광 품질인증]/Korea Quality)

17.3 Km    0     2023-09-12

キョンサンナムド ハドングン ファゲロ 13
+82-55-883-3699、 +82-10-3889-6663

「カビウォンモーテル」は、智異山般若峰の下の花開川に沿って、蟾津江と接する昔の花開市場の入口に位置しています。花開は雪が降る冬にも葛の花が咲いたというところで、自然景観が優れて、「ホリビョンソゲビョルチョンジ」と呼ばれています。周辺に七仏寺、サンゲサ、茶の施培地(茶を初めて植えたところ)、セイアンなどがあり、旅行を楽しむのに良いです。 

求礼 雲鳥楼古宅(구례 운조루 고택)

求礼 雲鳥楼古宅(구례 운조루 고택)

18.1 Km    26455     2022-11-03

チョンラナム道クリェ郡トジ面ウンジョルギル59

全羅南道求礼郡土旨面五美里に位置する雲鳥楼(ウンジョル)は、国家民俗文化財に指定されています。
1776年、朝鮮第21代王・英祖の時代に三水府使だった柳爾冑が建てた家屋で、元々78間ある豪邸でしたが、現在は63間が残っています。雲鳥楼の宅号は「雲の中の鳥のように隠れて住む家」という意味で、陶淵明の「帰去来辞(官を辞して帰郷し、自然を友とする田園生活に生きようとする決意を述べたもの)」という七言律詩から頭文字だけを取ったと言うことです。

孤雲洞渓谷(고운동계곡)

孤雲洞渓谷(고운동계곡)

18.6 Km    24907     2024-03-20

キョンサンナム道サンチョン郡シチョン面パンチョンロ

孤雲洞渓谷(コウンドンギェゴク)は、智異山(チリサン)に位置している渓谷です。智異山を回っていた儒学者の崔致遠(チェ・チウォン)が留まるほど景色が美しい場所でもあります。清らかな水が流れる渓谷と鬱蒼とした森が調和を成した美しい景色を誇ります。夏には避暑客が、秋には紅葉スポットとして有名なため、多くの人々で賑わいます。

ヨヌ[韓国観光品質認証](여느[한국관광 품질인증]/Korea Quality)

ヨヌ[韓国観光品質認証](여느[한국관광 품질인증]/Korea Quality)

18.6 Km    0     2023-09-20

チョンラナムド クリェグン スハン2(イ)ギル 53
+82-10-7353-1802

全羅南道求礼に位置する「ヨヌ」は独立運動家のワン·ジェイル先生の生家を生かして建てたペンションです。田舎の家の懐かしい雰囲気にミント色の屋根が童話のような特別さを与えてくれます。一軒家ペンションで運営し、離れには半身浴が可能な大型浴槽とサンルーム、そしてサンルームと連結されたデッキがあります。家のあちこちにはアメリカとヨーロッパ、国内を旅行しながら集めてきたビンテージ物が客を迎えてくれます。 

智異山湖水リゾート [韓国観光品質認証] (지리산호수리조트 [한국관광 품질인증/Korea Quality])

智異山湖水リゾート [韓国観光品質認証] (지리산호수리조트 [한국관광 품질인증/Korea Quality])

19.0 Km    54     2022-10-18

全羅南道 求礼郡 山洞面 クマンジェ路 610
+82-61-783-0011

智異山湖水リゾートは、智異山水落瀑布から流れた水が溜まって形成しされた九彎堤を見下ろせる山腹に位置しています。広く美しい湖の景色はもちろん、荘厳な智異山の峰が眺められる場所です。傾斜のある丘に棚田のように客室を整備し、目障りのないすっきりとした眺めを誇ります。リゾートの入り口に湖を横切る歩行専用の橋がかかっているので、湖を眺めながら軽く散歩するのに適しています。橋の向こうには放し飼いをする牧場があり、チーズ作り体験ができます。

智異山湖水リゾートはグランピング風の客室で、赤・青の屋根が旅のトキメキをさらに盛り上げます。屋外にあるバーベキュー場ではグランピングの魅力が実感できます。それぞれの客室前のテラスに置かれたテーブルでは、バーベキューも楽しめます。リゾートの最も高いところに広がる野生花園は、旅行客が花見をしたり子供の自然学習に役立てる目的で整備されました。

智異山チーズランド(지리산치즈랜드)

智異山チーズランド(지리산치즈랜드)

19.4 Km    0     2023-03-16

チョンラナム道クリェ郡サンドン面サノプロ1590-62

1979年、乳牛2頭からスタートしたチョウォン牧場は約30年の経験をもとに、より多くの人に酪農産業や牛乳について知ってもらうため、2012年に体験牧場「智異山チーズランド」を建設しました。智異山チーズランドでは手づくりチーズやヨーグルトを流通し、体験場ではモッツァレッラチーズづくり、子牛の哺乳体験、草そり遊びなどの体験ができます。牧場では約130頭の乳牛を放牧し、湖が隣接していて美しい風景を演出しています。 

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

19.6 Km    17192     2020-07-13

慶尚南道 山清郡 今西面 仇衡王陵路
+82-55-970-6411

伝・仇衡王陵(チョン・クヒョンワンヌン=仇衡王陵と伝えられている王陵という意)は伽倻(カヤ)の第10代の王・ 仇衡王(クヒョンワン)の墓として後世に伝えられている積石塚で、仇衡王は仇亥(クヘ)あるいは譲王(ヤンワン)とも呼ばれています。伽倻の王・仇衡王はその後の新羅の将軍・金庾信(キム・ユシン)の曽祖父にあたる人物です。521年に伽耶国の王に即位し、532年新羅の法興王(ポプンワン)に領土を明け渡すまで11年間、王の座に在位しました。

この墓を巡り、石塔であるという説と、王陵であるという説の二つの説があります。この石積塚を塔と見る見解はこれと似たものが安東(アンドン)と義城(ウィソン)地方に分布していることを根拠にしています。
一方、王陵であるという根拠は韓国全土を網羅した地理誌「東国輿地勝覧」の山陰県山川條のところに「県の40里(注:韓国の1里は約400m)の山中に石で積まれた九龍があるが、四面にすべて段々となっておりが、世俗には王陵と伝えられている」という記録があります。

この墓に王名を付けた記録は朝鮮時代の文人・洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の「王山尋陵記」(ワンサンシムヌンギ)に初めて登場しますが、墓の西側に王山寺(ワンサンサ)という寺があり、寺に伝えられている「王山寺記」に仇衡王陵という記録があったといいます。

一般の墓とは違い、傾斜のある丘の中腹にすべてで高さ7.15mの階段式の石段をなしています。前から見ると7段になった石積みで、後ろからは急な傾斜をそのまま利用して作られているため、平地に作られたピラミッド型の階段状の石積みとは異なった形となっています。墓の最上部は楕円形に石が積まれています。

 積石塚の真正面には「駕洛国譲王陵(カラックク・ヤンワンヌン)」と書かれた碑石があり、そのそばには石造物がいくつかありますが、これは近年に建てられたもので王陵の時代のものとは異なります。

朝鮮時代末期の正祖17(1793)年には、王山寺で長年伝承されてきた木箱から発見された仇衡王と王妃の肖像画、衣、弓などを収蔵するため、「徳譲殿(トギャンジョン)」という殿閣を建立、今日でも春や秋になると祭祀を執り行っています。




[詳細解説]
仇衡王陵と伝えられているこの積石塚・伝仇衡王陵は、駕洛編年記(カラクピョンニョンギ)によれば、新羅時代の法興王19(532)年、仇衡王が方丈山(パンジャンサン)の太王宮(テワングン)で亡くなり譲王(ヤンワン)という諡号(贈名)を追号しそこに埋葬されたということから、駕洛国第10代譲王の陵と言われています。譲王は新羅の王との戦いに敗れ、戦死したとも伝えられています。

この墓は一般の墳墓とは異なり、石積みの階段状になった方形をしており、西から東へと下る斜面に雑石で築造しています。
正面は7段となっていますが、後面は斜面に作られていることもあり前面に比べ傾斜があり段数も少なくなっています。石礫は正面からみても直線に積まれてはおらず、やや曲がった形で積まれ、また四隅も明確な形で作られておらず、最も上の部分は土を盛り上げて作る封墳のように楕円の半球型の形に石が積まれています。
前面中央から一番高いところまでの高さは7.15mほどあり、何の目的で作られたかは定かではありませんが第4段の東側に幅40cm、高さ40cm、深さ68cmの小さな仏像や位牌などを安置する龕室(カムシル)が設けられています。

この石積塚の周りには同じような雑石で高さ1mほどの塀が築かれており、また石積塚の真正面には「駕洛国譲王陵」と刻まれた石碑が建っています。さらに、その石碑の前には供え物などを置く平たい床石や石灯篭の一種・長明灯(チャンミョンドゥン)もあります。
その左右には文人石・武人石・石獣がそれぞれ一対ずつありますが、これら石造物は最近建てられたものであり石積塚とは年代的に大きな差がある石造物です。

この石積塚をめぐっては従来石塔という説と王陵という二つの説が提起されてきました。まず、これを石塔とする説はこのような形態の石塔が安東や義城地方に分布していることを根拠に挙げています。
一方、王陵とする説は「東国輿地勝覧」の山陰県山川條に「王山(ワンサン)」についての記述があり、その 脚注に「県の40里の山中に石で積んだ九龍があるが、四方すべての面が段々となっており、世間には王陵と伝えられている」という記録があります。
この墓を仇衡王陵という名称で初めて言及したのは洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の ≪王山尋陵記(ワンサンシムヌンギ)≫でのことですが、近くにある王山寺(ワンサンサ)に伝えられている≪山寺記巻(シンサギグォン)≫に仇衡王陵と書かれていたといいます。
他の史料≪山清県遺誌≫によれば、正祖22(1798年)初めて王陵について言及したと記録している書物は、洪儀泳の ≪王山尋陵記≫で、これを根拠に王陵と判断したと思われます。伝えられるところでは、およそ200年前に村の人々が山に登り、祈雨祭(雨乞い)を行ったところ雨が降り、下山した王山寺で雨宿りをしていると、本堂の梁の上に正体不明の大きな木箱を見つけ、これを梁から下ろして中を見てみると、その中から仇衡王やその王妃の肖像画や服、弓、刀などの遺物とともに名僧・担渶(タンヨン)が記した王山寺記を発見、これを手掛かりに王陵を探し出すことができたといいます。
この時発見されたこれら遺物を所蔵するために朝鮮時代後期の正祖17(1793)年に徳譲殿を建て、それ以降毎年春と秋に追慕祭を執り行っています。