8.6Km 2025-03-13
キョンサンブク道キョンジュ市キョドン274
月精橋(ウォルチョンギョ)は、慶尚北道(キョンサンプクド)慶州市(キョンジュシ)校洞(キョドン)にある統一新羅時代に架けられた橋です。この橋は朝鮮時代に失われてしまいましたが、2018年4月、韓国国内最大級の木造橋として復元されました。
『三国史記』によれば、この月精橋は、統一新羅時代の760年に造られたと記録されており、慶州月城(ウォルソン)と南山(ナムサン)を結ぶ橋でした。1984年11月26日から1986年9月8日まで、2回にわたって復元工事のための情報収集及び発掘調査を行い、その結果、建設当時の月精橋が木造の橋であったことが初めて判明しました。この調査をもとに復元のための設計図を引き、出来上がった設計図を基に2008年から2013年まで復元工事を実施、全長66.15メートル、幅13メートル、高さ6メートルの橋が復元されました。2016年4月からは橋の両端の2つの門楼の建設が始まり、2018年4月に完成しました。門楼の2階には出土した遺物や橋の建築の歴史を紹介するデジタル展示館があり、月精橋の歴史や復元の過程の映像を見ることができます。慶州市の新羅王京8大核心遺跡復元整備事業のなかで初めて完了した月精橋復元事業は、今後行われる皇龍寺(ファンニョンサ)、新羅王宮、チョクセム地区、新羅坊里制などの復元整備工事の参考になるものとみられます。
8.6Km 2025-05-27
キョンサンブク道キョンジュ市キョチョンギル39-2
国家民俗文化遺産・慶州崔富者宅(キョンジュチェプジャテク)や国家無形遺産・慶州校洞法酒(ポプチュ)がある校洞(キョドン)村(キョドンマウル)は、12代もの間、万石取りの大地主としての財産を守り、また学問にも力を入れ9代にわたり科挙の予備試験に当たる小科のひとつ覆試(ポクシ)に合格した人に与えられる称号・進士(チンサ)を輩出した慶州(キョンジュ)崔氏一門の魂が宿る場所です。
慶州崔氏一門で家訓のように継承されている原則「官職は進士以上するな、財産は万石以上蓄えるな、過客を手厚くもてなせ、凶作の年には他人の田畑を買ってはならない、崔氏一門の嫁は嫁入り後3年間木綿の服を着なければならない、 四方100里(注:韓国の1里は約400メートル)内で飢え死にする人がないようにせよ」は、真のノブレス・オブリージュがいかなるものであるかと考えさせる内容となっています。
この村は新羅時代の高僧・元暁(ウォニョ)大師との間に薛聡(ソル・チョン=新羅時代を代表する学者)を生んだ新羅29代の王・太宗武烈王(テジョンムヨルワン)の娘・瑤石(ヨソク)公主が暮らした瑤石宮(ヨソックン)があったところだといわれています。近くに新羅の始祖である朴赫居世(パク・ヒョッコセ)の誕生の逸話が残る鶏林(ケリム)や奈勿王陵(ネムルワンヌン)、慶州郷校(キョンジュヒャンギョ)、 新羅の名将・金庾信(キム・ユシン)将軍が暮らした財買井(チェメジョン)があります。
8.7Km 2025-04-28
キョンサンブク道キョンジュ市イヌァン洞76
+82-54-740-7500
2022年12月15日に開館した新羅千年書庫は、博物館所蔵図書を閲覧できる、国立慶州博物館内にある図書館です。以前、収蔵庫として使われていた建物は韓屋の形をかたどった外観を生かし、内部は現代的に改装されています。これまで国立慶州博物館で発刊した図書はもちろん、国内外の展示図録や新羅および慶州学関連図書などを所蔵しています。別途設けられたブックキュレーションルームでは博物館のキュレーターと司書が選んだ本をテーマに合わせて紹介し、本に関するさまざまなイベントも行われます。その他、韓国室内建築家協会(KOSID)が主管する「2022年ゴールデンスケールベストデザインアワード協会賞」を受賞しています。
8.7Km 2025-02-06
キョンサンブク道キョンジュ市キョチョンアンギル19-4
新羅・武烈王の娘・瑤石姫が暮らしていた宮廷跡に、朝鮮時代、慶州の「崔富者」が門を構えたのが、瑶石宮(ヨソックン)です。また、日帝強占期に国を奪われ、鬱憤を慰めあった多くの独立運動家たちが隠れ住んだ場所でもあります。「崔富者」家門の兄弟は、独立運動の先頭に立ち、独立のために資金を援助し、解放後は全ての財産を社会へ還元した事で全国民から尊敬されました。当時、「崔富者」宅を訪れた客人たちが「崔富者」家の伝統家庭料理の素晴らしさを伝え広め、現在も世界各国の大使や歴代大統領、各界の著名人がこの名家に伝わる伝統の家庭料理を堪能するため、瑶石宮を訪れます。
8.8Km 2020-04-04
慶尚北道 慶州市 日精路 186
+82-54-740-7500
聖徳大王神鐘(ソンドクテワンシンジョン)韓国に残る最も大きい梵鐘で高さ3.75メートル、口径2.27メートル、厚さ11センチメートルから25センチメートルを誇ります。重さは1997年に国立慶州博物館が精密実測した結果、18.9トンであることが確認されました。
新羅時代、景徳王(キョンドクワン・在位 742~765年)が父に当たる成徳王(ソンドクワン・在位 702~737年)の功徳を広く知らしめるため鐘の制作を試みましたが、その意を叶えることはできず、その跡を引き継いだ恵恭王(ヘゴンワン・在位 765~780年)が771年にようやく完成させ、聖徳大王神鐘と命名しました。
この鐘は当初、鳳徳寺(ポンドクサ)に吊るされていたことから鳳徳寺鐘と呼ばれていましたが、子供を鐘の鋳造時に溶かし入れたという人柱伝説があり、母親を呼ぶ子供のなき声に似た鐘の響きがあることから、その鳴き声になぞらえてエミレの鐘とも言われています。
鐘の最も上部には鐘の響きを反響させる音筒がありますが、これは韓国の銅鐘でのみ見られる独特な構造です。
鐘を吊り下げるために作られた環状になっている龍頭の部分は、龍の頭が彫刻されています。
鐘身には上下それぞれに幅広の帯状の模様があり、その中に花の文様を刻み込んであります。
さらに鐘の肩の部分の下には4ヶ所に蓮の花の模様や突出して作られた九つの乳頭を四角形の乳郭が取り囲んでいます。その乳郭の下の方には飛天像が2対描かれ、その間には鐘を突く部分・撞座が蓮の花の模様で作られています。
また鐘身の2か所にはこの鐘の来歴が刻まれています。
中でもこの鐘が特徴的なのは、鐘の下の開口部の縁のところどころが菱形の角のように尖った、他にはない形態をしている点です。
聖徳大王神鐘は統一新羅の芸術が各分野にわたり全盛期を迎えた時代に作られた鐘で、華麗な文様や彫刻技法はその時代を代表するものと言えます。
また鐘の側面に残っているおよそ千字余りの銘文は文章のみならず、その鐘に刻む手法そのものも秀でたものであり、およそ1300年が過ぎた今日でも欠けることなく現世に伝えられており、未来永劫伝承すべき文化財となっています。
8.8Km 2025-05-27
キョンサンブク道キョンジュ市キョチョンアンギル27-20
慶州郷校(キョンジュヒャンギョ)は、創建年未詳となっていますが、高麗時代に儒学の先賢・賢儒の位牌を祀り、地元の中等教育や地方に住む人々の教化を図る目的で創建されました。新羅時代の神文王(シンムナン)2(682)年に、教育と儀礼を司る礼部(イェブ)に属する教育機関・国学が設置された場所と言われています。その後朝鮮時代に入り、慶州郷校は、1492(成宗23)年慶州を治めていた官庁の長・慶州府尹(キョンジュブユン)の崔応賢(チェ・ウンヒョン)が重修を行いました。しかし、壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の際、位牌を安置する大成殿(テソンジョン)が焼失、中にあった位牌を道徳山(トドクサン)斗徳庵(トゥドガム)に一旦移し、1600(宣祖33)年になり当時の慶州府尹・李時発(イ・シバル)が大成殿と典祀庁(チョンサチョン)を重建し、位牌を元に戻したといいます。1614(光海君6)年には府尹の李安訥(イ・アンヌル)が明倫堂(ミョンニュンダン)の重修を行い、また同時に建物の東西に対称になるよう両廡を重建、続いて1668(顕宗9)年には補修も行いました。
慶州郷校は慶尚北道(キョンサンプクド)有形文化遺産に指定されており、現存する建物としては、大成殿・明倫堂・東廡・西廡・典祀庁・内神門(ネシンムン)などがあります。正面3間、側面3間の切妻屋根となっている大成殿には儒教の五聖、宋朝二賢、韓国の十八賢の位牌が祀られています。
書院が私立学校ならば郷校は公立学校に該当します。現在は教育的機能はなくなり毎年春・秋の伝統的儒教祭礼儀式である釈奠大祭(ソクチョンデジェ)を行っています。また、慶州郷校では国弓、餅つき、茶道などの伝統文化体験と毎年4月から10月まで明倫堂で伝統婚礼を無料で体験する試演婚プログラムを運営しています。
8.9Km 2025-05-08
キョンサンブク道キョンジュ市イルチョンロ186
国立慶州(キョンジュ)博物館は新羅の文化遺産を一目で見ることができる韓国の代表的な博物館です。慶州旅行をする際にまず立ち寄ってあらかじめ慶州について知ってから文化遺産を訪問するとより充実した旅行ができるでしょう。
国立慶州博物館の常設展示室は紀元前57年~935年まで韓半島南東部にあった千年王国・新羅に出会える「新羅歴史館」、新羅の輝かしい美術文化と歴史を見せる「新羅美術館」、慶州東宮と月池(雁鴨池)で発見された約3万点の統一新羅時代の国家遺産の中から厳選した約1,100点の国家遺産をテーマ別に展示し、統一新羅文化、特に王室の生活文化全般を理解できるように構成された「月池館」、慶尚道地域で発掘された国家遺産を安全かつ効率的に保管するために建てられた専用保管施設「新羅千年宝庫」、梵鐘・石塔・石仏・石灯籠などの石造品約1,300点が展示された「屋外展示」で構成されており、千年王国・新羅の成長と輝かしい美術文化、国宝や宝物などを見ることができます。その他、博物館所蔵図書を閲覧できる博物館の中の図書館「新羅千年書庫」や、子ども博物館などもあります。新羅歴史館、新羅美術館、月池館では決まった時間に展示解説プログラムを運営しており、解説を聞きながら展示館観覧をするとより理解を深めることができます。
9.0Km 2022-08-29
キョンサンブク道キョンジュ市キョ洞
「慶州奈勿王陵(キョンジュネムルワンヌン)」は慶州郷校の北側に位置する丘の上にある大型の丸い土墳です。墓の底面や周りに自然石の稜がありますが、これは武烈王陵の場合と同じでその中に別の護石が設置されていると推測されています。三国史記には奈勿王の葬地に関する記録はありませんが、三国遺事に瞻星台の南西にあると記録されており現在の位置と一致します。また初期の王陵としては比較的綺麗な形で現存しています。
保護区域1万2,818平方メートル、底径22メートル、高さ5.3メートル
9.0Km 2023-01-18
キョンサンブク道キョンジュ市キョ洞
瞻星台と月城の間に位置しており、史跡に指定されています。慶州金氏の始祖、閼智が誕生したという伝説がある由緒ある場所で、このような話が残されています。新羅脱解王の時に、瓠公がこの林の中で鶏の鳴き声を耳にしたので、声が聞こえる方に近寄ってみると、木の枝に金の装飾がほどこされた櫃が引っかかって、光を放っていました。このことを王に話すと、王は自ら林へ行き櫃を下ろし、ふたを開けると中から男の子が出てきたので、この子の姓を金、名前を閼智とつけ、もともと始林、鳩林と呼ばれていたこの林のことを「鶏林(キェリム)」と呼ぶようになったと伝えられています。鶏林は、新羅の国号としても使われました。丸く広がっている林には、ケヤキの木などの古木が鬱蒼と茂っており、北から西にかけては小川が流れています。王は閼智を皇太子に任命しましたが、後に朴氏王族である婆娑王に王位が継承されたため、王位に就くことはできませんでした。後の時代、奈勿王の時より新羅金氏が王族となりました。境内にある碑は1803年に建てられたもので、金閼智誕生についての記録が刻まれています。大陵苑-鶏林-半月城と続く散策路の周辺には春になると黄色いアブラナが咲き、趣を一層深めてくれます。