観光 - 韓国旅行情報

碑岩寺(世宗)(비암사(세종))

碑岩寺(世宗)(비암사(세종))

2020-04-02

世宗特別自治市 全義面 碑岩寺キル137
+82-44-863-0230

「碑岩寺(ピアムサ)」は京釜線の全義駅から南に10キロメートルほどのところにあります。記録が残っていないため正確な創建年度を知ることはできませんが、一説では2000年前といわれています。また、忠清南道地方文化財に指定されている碑岩寺の極楽宝殿や三層石塔から、高麗時代中期に創建されたのではないかとも推測されています。
極楽殿の前にある高さ3メートルの三層石塔の上部から四面群像が見つかり、広く知られるようになりました。この石像のうち、国宝第106号の「癸酉銘全氏阿弥陀仏三尊石像」、宝物第367号の「己丑銘阿弥陀如来諸仏菩薩石像」、宝物第368号の「弥勒菩薩半迦石像」は国立中央博物館に保存されています。

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

山清 伝・仇衡王陵(산청 전 구형왕릉)

2020-07-13

慶尚南道 山清郡 今西面 仇衡王陵路
+82-55-970-6411

伝・仇衡王陵(チョン・クヒョンワンヌン=仇衡王陵と伝えられている王陵という意)は伽倻(カヤ)の第10代の王・ 仇衡王(クヒョンワン)の墓として後世に伝えられている積石塚で、仇衡王は仇亥(クヘ)あるいは譲王(ヤンワン)とも呼ばれています。伽倻の王・仇衡王はその後の新羅の将軍・金庾信(キム・ユシン)の曽祖父にあたる人物です。521年に伽耶国の王に即位し、532年新羅の法興王(ポプンワン)に領土を明け渡すまで11年間、王の座に在位しました。

この墓を巡り、石塔であるという説と、王陵であるという説の二つの説があります。この石積塚を塔と見る見解はこれと似たものが安東(アンドン)と義城(ウィソン)地方に分布していることを根拠にしています。
一方、王陵であるという根拠は韓国全土を網羅した地理誌「東国輿地勝覧」の山陰県山川條のところに「県の40里(注:韓国の1里は約400m)の山中に石で積まれた九龍があるが、四面にすべて段々となっておりが、世俗には王陵と伝えられている」という記録があります。

この墓に王名を付けた記録は朝鮮時代の文人・洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の「王山尋陵記」(ワンサンシムヌンギ)に初めて登場しますが、墓の西側に王山寺(ワンサンサ)という寺があり、寺に伝えられている「王山寺記」に仇衡王陵という記録があったといいます。

一般の墓とは違い、傾斜のある丘の中腹にすべてで高さ7.15mの階段式の石段をなしています。前から見ると7段になった石積みで、後ろからは急な傾斜をそのまま利用して作られているため、平地に作られたピラミッド型の階段状の石積みとは異なった形となっています。墓の最上部は楕円形に石が積まれています。

 積石塚の真正面には「駕洛国譲王陵(カラックク・ヤンワンヌン)」と書かれた碑石があり、そのそばには石造物がいくつかありますが、これは近年に建てられたもので王陵の時代のものとは異なります。

朝鮮時代末期の正祖17(1793)年には、王山寺で長年伝承されてきた木箱から発見された仇衡王と王妃の肖像画、衣、弓などを収蔵するため、「徳譲殿(トギャンジョン)」という殿閣を建立、今日でも春や秋になると祭祀を執り行っています。




[詳細解説]
仇衡王陵と伝えられているこの積石塚・伝仇衡王陵は、駕洛編年記(カラクピョンニョンギ)によれば、新羅時代の法興王19(532)年、仇衡王が方丈山(パンジャンサン)の太王宮(テワングン)で亡くなり譲王(ヤンワン)という諡号(贈名)を追号しそこに埋葬されたということから、駕洛国第10代譲王の陵と言われています。譲王は新羅の王との戦いに敗れ、戦死したとも伝えられています。

この墓は一般の墳墓とは異なり、石積みの階段状になった方形をしており、西から東へと下る斜面に雑石で築造しています。
正面は7段となっていますが、後面は斜面に作られていることもあり前面に比べ傾斜があり段数も少なくなっています。石礫は正面からみても直線に積まれてはおらず、やや曲がった形で積まれ、また四隅も明確な形で作られておらず、最も上の部分は土を盛り上げて作る封墳のように楕円の半球型の形に石が積まれています。
前面中央から一番高いところまでの高さは7.15mほどあり、何の目的で作られたかは定かではありませんが第4段の東側に幅40cm、高さ40cm、深さ68cmの小さな仏像や位牌などを安置する龕室(カムシル)が設けられています。

この石積塚の周りには同じような雑石で高さ1mほどの塀が築かれており、また石積塚の真正面には「駕洛国譲王陵」と刻まれた石碑が建っています。さらに、その石碑の前には供え物などを置く平たい床石や石灯篭の一種・長明灯(チャンミョンドゥン)もあります。
その左右には文人石・武人石・石獣がそれぞれ一対ずつありますが、これら石造物は最近建てられたものであり石積塚とは年代的に大きな差がある石造物です。

この石積塚をめぐっては従来石塔という説と王陵という二つの説が提起されてきました。まず、これを石塔とする説はこのような形態の石塔が安東や義城地方に分布していることを根拠に挙げています。
一方、王陵とする説は「東国輿地勝覧」の山陰県山川條に「王山(ワンサン)」についての記述があり、その 脚注に「県の40里の山中に石で積んだ九龍があるが、四方すべての面が段々となっており、世間には王陵と伝えられている」という記録があります。
この墓を仇衡王陵という名称で初めて言及したのは洪儀泳(ホン・ウィヨン=1750~1815年)の ≪王山尋陵記(ワンサンシムヌンギ)≫でのことですが、近くにある王山寺(ワンサンサ)に伝えられている≪山寺記巻(シンサギグォン)≫に仇衡王陵と書かれていたといいます。
他の史料≪山清県遺誌≫によれば、正祖22(1798年)初めて王陵について言及したと記録している書物は、洪儀泳の ≪王山尋陵記≫で、これを根拠に王陵と判断したと思われます。伝えられるところでは、およそ200年前に村の人々が山に登り、祈雨祭(雨乞い)を行ったところ雨が降り、下山した王山寺で雨宿りをしていると、本堂の梁の上に正体不明の大きな木箱を見つけ、これを梁から下ろして中を見てみると、その中から仇衡王やその王妃の肖像画や服、弓、刀などの遺物とともに名僧・担渶(タンヨン)が記した王山寺記を発見、これを手掛かりに王陵を探し出すことができたといいます。
この時発見されたこれら遺物を所蔵するために朝鮮時代後期の正祖17(1793)年に徳譲殿を建て、それ以降毎年春と秋に追慕祭を執り行っています。

黄梅山(山清)(황매산(산청))

黄梅山(山清)(황매산(산청))

2023-04-25

キョンサンナム道サンチョン郡チャファン面ファンメサンロ1202ボンギル

太白山脈の最後の峻峰である黄梅山(ファンメサン)は、高麗時代の無学大師が道義を修めたところで、黄梅峰をはじめとした東南側は奇岩絶壁となっており、小さな金剛山と呼ばれるほど美しい山です。頂上から見ると周辺の景色は満開になった梅の花のようであり、梅の花の中に1人で浮かんでいるような神秘的な感じがします。

鶴林寺(世宗)(학림사(세종))

2022-11-10

セジョン特別自治市ヨンソ面ワリョンロ353

鶴林寺(ハンニムサ)はとても美しい尼寺として有名です。鶴林寺は600年ほど前、棲鶴山(ソハクサン)にあるハクパウィ(鶴岩)の下に建立されたと言い伝えられています。歳月を経て一時、廃寺となってしまいましたが、1965年4月、再び寺を建立し、安養寺(アニャンサ)として再出発しました。その後、1985年に大雄殿と寮舎を重創し、寺の名称も鶴林寺に変えました。2004年には原色の色も鮮やかな韓国伝統家屋に塗られる丹青(タンチョン)も施しました。
鶴林寺のうつくしさのもう一つは境内に咲く花です。いつの季節に訪れてもさまざまな花が迎えてくれますが、特に春の鶴林寺は一面、花畑のようになります。

神光寺(世宗)(신광사(세종))

2023-04-07

世宗特別自治市 鳥致院邑 トゴルゴゲキル24
+82-44-865-5601

神光寺(シングァンサ)は世宗特別自治市鳥致院邑の露積山に位置する寺院です。創建年代は約160年前とされており、1920年に住職が復元したという記録が残っています。創建当時はトゴル寺、修養寺(スヤンサ)などと呼ばれていましたが、1980年に現在の寺院名に変更されました。

清眼寺(청안사)

2020-04-13

世宗特別自治市 全義面 カヌシルキル 128-23
+82-44-867-3407

清眼寺(チョンアンサ)は錦城山や鵲城山、国師峰に囲まれた場所にある大韓仏教曹渓宗の寺院で、1900年頃に創建されたものと伝えられています。清眼寺から50メートルほど離れたところに昔の寺跡があり、朝鮮時代中期の瓦や白磁のかけらが出土していることから、その時期にはこの寺が存在していた可能性があるとされています。最近まで成仏寺(ソンブルサ)という名前でしたが、2002年に現在の寺院名に変わりました。

金伊城(금이성)

2020-03-17

世宗特別自治市 全東面 松城里
+82-44-300-3444

鉄甕城として呼ばれていた山城の金伊城(クミソン)は海抜高度430メートルの金城山の頂上部の周囲に築造された山城です。城の周りは714メートルで「鉄城」として金城として表記され、三国史記に出てくる「金峴城」はこの山城にちなんだものです。
築造様式は典型的な百済様式で、一部に統一新羅初期の様式が追加された山頂型の築造です。また城の中から出土した遺物の製作時期から、高麗時代に築城されたものと推測されています。険阻な地形を利用し堅固に構築されたため、世間に「鉄甕城」として呼ばれました。

高福自然公園(고복자연공원)

2021-12-21

世宗特別自治市 燕西面 道新高福路 586

高福(コボク)自然公園にある高福貯水池は、面積77万平方メートルを誇る大規模な農業用水用の貯水池です。ライギョ、フナ、コイ、ナマズなど、さまざまな魚類が生息していることから釣りのメッカとしても知られています。公園に指定されている範囲は184万平方メートルで、五峰山(オボンサン)自然林、洞窟、寺、野外彫刻展示場などがあります。近くにはブドウや桃、梨を栽培する果樹団地もあります。公園の近くには広場や梨花(イファ)女子大学校美術大学のカン・テソン教授が造成した野外彫刻公園があり、おすすめの観光スポットです。特に野外プールがオープンする夏休み期間中には多くの人々が訪れます。貯水池の北側の畔にある民楽亭(ミルラクチョン)から眺める景観は大変すばらしく、桜が咲く頃の高福自然公園は知る人ぞ知る隠れた桜の名所となっています。また高福自然公園の周辺には韓方鴨料理やナマズのピリ辛鍋・メギメウンタンを提供する食堂が点在しており、食通の人々に人気があります。

黄龍寺(世宗)(황룡사(세종))

2021-01-29

世宗特別自治市 燕東面 ファンウジェキル22-17
+82-44-864-7000

黄龍寺(ファンニョンサ)は韓国仏教の太古宗に属する寺院で、創建については正確に知られていません。朝鮮中期の党争を避け、都落ちした黄喜(1363~1462年)の子孫が国の太平聖代と家門の繁昌を祈るための願刹として創建したと伝えられています。その後、黄喜の子孫が代々寺院を続けてきましたが、ある時期から頹落して廃墟となったとされています。

錦南シラサギ生息地(금남 백로 서식지)

2022-08-02

セジョン特別自治市クムナム面カムソンギル45-13

世宗特別自治市錦南面のシラサギ生息地は朝鮮時代から形成され、現在まで続いていると伝えられています。シラサギの他にアオサギ、アマサギなども生息していて、多い時は5,000羽を超えるといいます。シラサギがたくさん飛んでくる年は豊作になり、少ない年は凶作になるといわれています。旅行するならばたくさんシラサギが訪れる4~5月が最適です。