観光 - 韓国旅行情報

報恩 宣炳国家屋(보은 선병국가옥)

報恩 宣炳国家屋(보은 선병국가옥)

2022-09-19

チュンチョンブク道ポウン郡チャンアン面ケアンギル10-2

1919~1921年の間に建てられた「宣炳国家屋(ソンビョングクカオク)」は、伝統的な建築技法から脱し、部屋の広さや天井の高さなどを大きめに建てるという変化を遂げた時期の代表的な建物です。家は、奥の間と離れ、祠堂と3つの空間に分けられており、内壁で取り囲んだその周りをさらに外壁で大きく囲んであります。外壁の南側に作られた家の入口にある松林の中に、この家の祖父にあたる宣氏の孝子亭閣が建てられています。ここは、俗離山から流れる三嘉川の小川の中央にデルタを形成した島で、一説によれば家の跡地が水の上に浮かんだ蓮の花の形であったことから子孫繁栄と長寿を祈ったと伝わっています。また、周辺には美しい松の木が森を形成しています。

順天伝統野生茶体験館(순천 전통야생차체험관)

順天伝統野生茶体験館(순천 전통야생차체험관)

2019-10-16

全羅南道 順天市 昇州邑 仙岩寺キル450
+82-61-789-4500

順天伝統野生茶体験館は曹渓山の仙岩寺に行く途中にあります。釜炒り茶を作って試飲したり、瞑想体験などをしたりすることができます。

仙遊渓谷(선유구곡(선유동계곡))

仙遊渓谷(선유구곡(선유동계곡))

2020-04-28

忠清北道 槐山郡 青川面 仙遊洞キル179
+82-43-832-4347

槐山郡松面から東北方向に1~2キロメートルにわたって続く渓谷で、朝鮮時代に退渓李滉が、7松亭(現松面里松亭部落)にある咸平李氏宅を訪ねた際、山と水、岩、老松などがあいまった絶妙な景色に惚れ込み、9ヶ月間歩き回って9つの渓谷に名をつけ刻んだと言います。長い歳月を経て彼が刻んだ文字は消えてしまいましたが、絶景であることに依然変わりありません。仙人たちが降りてきて遊び歩いた場所という意味を持つ仙遊洞門をはじめ、擎天壁、鶴巣岩、鍊丹爐、臥龍爆、爛柯臺、碁局岩、九岩、隠仙岩が渓谷を形成しています。

清風文化財団地(청풍문화재단지)

清風文化財団地(청풍문화재단지)

2022-11-23

チュンチョンブク道チェチョン市チョンプン面チョンプンホロ2048

清風は昔から自然景観が美しく、文物が盛んだったところで、多くの文化遺跡が存在しています。しかし、忠州ダムの建設により清風面後山里、広石里、水山面池谷里にあった村が文化財と共に水没の危機にさらされたことにより、忠清北道庁は1983年から約3年かけて文化財を原型のまま、現在の位置に移転・復元し、「清風文化財団地」を造成しました。団地には郷校・官衙・民家・石物群など、43点の文化財が置かれており、民家4軒内には生活遺物約1,600点が展示されています。また、高麗時代に官衙の宴会場として建てられた清風寒碧楼(宝物)や清風石造如来立像(宝物)の宝物2点、八詠楼(忠清北道有形文化財)、錦南楼(忠清北道有形文化財)、凝清閣(忠清北道有形文化財)、清風郷校(忠清北道有形文化財)などの建築物および都護府時代の府使や郡守の頌徳碑、頌徳碑、烈女門、功徳碑などがあり、 昔の人々の息づかいを感じることができます。

白雲山自然休養林(백운산자연휴양림)

2024-01-29

チョンラナム道クァンヤン市オクリョン面ペクキェロ337

白雲山(ペグンサン)休養林が位置している白雲山は韓国生態系の宝庫。希少動植物が多数生息し、様々な見どころを提供しています。毎年春になると、健康飲料として脚光を浴びているイタヤカエデ(カエデ科の落葉広葉樹。樹液は砂糖や薬の材料に使用される)の樹液が飲めるので、恵み豊かな自然休養林と呼ばれています。標高1,222メートルの白雲山を主峰とし、人工林と天然林が調和しながら松の大木が絨毯のように広がっており、スギとヒノキの森を流れる渓流は感嘆するほどの美しさを誇ります。近くには道詵国師が35年間修行した玉龍寺址(史跡)があり、2~3月になると玉龍寺址周辺を取り囲む約7,000本の椿が咲き乱れて壮観です。

清州 上党山城(청주 상당산성)

2022-12-27

忠清北道 清州市 上党区 城内路 70

上党山城(サンダンサンソン)は清州市内と近く清州市民の憩いの場となっています。上党山城という名称は三国時代、百済の上党県から由来したようです。周囲の長さが4キロメートルを越える巨大な石垣の城です。
統一新羅初期に新羅の西原小京が清州地域に設置されましたが、三国史記に金庾信の三男である元貞公が西原述城を積んだという記録があり、このとき積まれたものではないかとも推測されます。これを壬辰倭乱の宣祖29年(1956)に大々的に修築した後、1716年に石城に改築したものです。長さ4.2キロメートル、高さ3~4メートルで、城壁は大きさが一定でない石材で垂直に近い壁面を構築しており、その中は土砂を積み上げた内托工法でできています。東、西、南の3つの門はほぼ原形のまま残っており、すべてに門楼があります。また、山城の正門である控南門はアーチ型の形を、東門と西門は四角形の形をしています。1970年に史跡第212号に指定され、山城内には韓屋村(ハノクマウル)もあります。

青南台(청남대)

2023-04-13

忠清北道 清州市 上党区 文義面 青南台キル646
+82-43-257-5080

大清湖畔にある「青南台(チョンナムデ)」は「温かい南の青瓦台」という意味を持っており、1983年から大韓民国大統領の公式別荘として使われているところです。総面積は182万5千平方メートルで主要施設として本館を中心にゴルフ場、ヘリポート、養魚場、五角亭、茅屋などがあります。6人の大統領が89回472日利用または訪問し、2003年4月18日から一般に開放されています。四季ごとに姿を変える木々124種・約11万6千本や野花143種・約35万本は青南台のもうひとつの自慢です。自然生態系もよく保存されており、天然記念物のカワウソ、ムササビやイノシシ、キバノロ、ヤマネコ、タヌキ、キジなどが生息しており、各種渡り鳥の飛来地にもなっています。

文義文化財団地(문의문화재단지)

2024-09-06

チュンチョンブク道チョンジュ市サンダン区ムンウィ面テチョンホバンロ721

文義文化財団地は、消えゆく固有の伝統文化を再現し先祖の生き方と魂を称え学ぶために造られた歴史教育の場・文化芸術の空間で、大清湖を見下ろす美しい場所に位置しているため多くの家族連れが訪れるところです。4万坪の敷地に忠清北道有形文化財である文山館と両班家屋、文化遺物展示館をはじめとした全10棟の古い建物が集まり、昔の人々が生活していた村の姿を見られるだけでなく、先史時代の墓石である支石墓(コインドル)、多産と繁殖を象徴する祈子石、チャンスン(村やお寺の入口などに道しるべとして立てられた人の頭の形をした柱)、ひき臼など、さまざまな民俗資料を収集しています。
文化財団地が誇る遺物展示館では瓦をテーマに、現在は新羅、百済瓦当など時代・種類別に全774点と清原郡の遺物を展示しています。展示館前の庭園には高麗時代に築造されたと考えられる文山里石橋を復元しました。
団地内の広い駐車場には道内初の自動車専用劇場があり、文義映画村とも呼ばれています。この他にも周辺を囲んでいる人工の滝や壤城山(ヤンソンサン)、鵲頭山(チャットゥサン)、大清湖、鷺山松林、東華寺(トンファサ)などの観光地があります。

全羅南道 潭陽 昌平[スローシティ](전남 담양 창평 [슬로시티])

2021-04-16

全羅南道 潭陽郡 昌平面 トルダムキル 56-24
+82-2-383-3807

全羅南道潭陽(タミャン)郡昌平(チャンピョン)は農村地帯でトマト、イチゴ、ハウス栽培の野菜など近郊農業が盛んな所で、素晴らしい自然環境がいまもなお残りつつ、田園都市など今後の発展への潜在力を持つ、人情にもあふれ住みやすい美しいところです。
昌平(チャンピョン)という地名は高麗時代初期まで遡ることができ、これまで文武百官を輩出したソンビ(学者)の村として忠・孝・礼・信義を守り続けてきた村としてその名声を博しています。壬辰倭乱(日本で言う文禄・慶長の役)の時の義兵隊長だった霽峰・高敬明(コ・ギョンミョン)先生の次男・鶴峰・高因厚(コ・インフ)先生の11代子孫である大韓帝国末期の義兵隊長・鹿川・高光洵(コ・グァンスン)義兵隊長が生まれた義を重んじる村で、近現代に入って1906年4月1日私立長興学校を創設・開校し、新学問を教育した春崗・高鼎柱(コ・ジョンジュ)先生、国務総理や国会副議長、中央省庁のトップである長官、大法院(最高裁)判事、マスコミ界の重鎮・高在旭(コ・ジェウク)、初の工学博士・李升基(イ・スンギ)博士、初の女性農学博士・金三純(キム・サムスン)博士の故郷でもあります。
朝鮮時代に王への献上品として有名であった昌平米飴や韓菓、千年の神秘をとどめる竹塩、竹塩味噌、伝統トッカルビなどは韓国伝統の食べ物として昌平が誇るものです。

歴史
三韓時代 - 拘溪国
百済時代 - 屈支県
新羅時代 – 757(景德王16)年祈陽県
高麗時代 – 940(太祖23)年昌平県(別名として鳴平[ミョンピョン])。 1144(仁宗21)年、中央指定官として県令を置く。
朝鮮時代 –
1474(成宗5)年-昌平県を撤廃し光州牧に隷属させる形となったものの、金有山(キム・ユサン)が王に訴え 再び1479年昌平県となる。
1758(英祖34)年閔百禄(ミン・ペンノク)が昌平県誌を編纂し、1793年(正祖17)年昌平県令である趙光存(チョ・グァンジョン)が現在の古西面古邑里から昌平面昌平里82番地(昌平面事務所)に移る。
1895(高宗32)年5月26日南原府昌平郡(4等郡守)となる。
1896(高宗33)年8月24日全羅南道昌平郡として9つの面を管轄。

日帝強占期 – 1910年国権侵奪時代 - 昌平郡
1914年2月28日、部令第11号(1913年12月29日公布)により昌平郡が潭陽郡に編入され、昌平面に改称

※ 昌平という地名は孔子の出生地・魯の昌平郷とその地形などが似ていることから命名されたという説があります。
1990年4月1日付で南面外東里が昌平面に編入

報恩 三年山城(보은 삼년산성)

2021-12-23

忠清北道 報恩郡 報恩邑 城舟1キル104
+82-43-540-3406

報恩(ポウン)は、隣接している槐山エリアと同じく山地が多いエリアです。三国時代の角逐の場だった忠清北道には、比較的山城が多く、その中でも韓国で一番立派な山城と言われているのが、この「三年山城(サムニョンサンソン)」です。
三年山城は、新羅慈悲麻立干13年(470)に建てられ始め、わずか3年で完成したことからその名がついたと言われています。その後、炤知麻立干8年(486)にシルチュク将軍が、3千人を動員して改築したという記録が残っています。新羅が、西北地方で勢力を拡大するのに一番重要な前哨基地だったと考えられており、三国統一戦争の際、太宗武烈王が、唐の国使臣王文度をここで迎えたといいます。高麗太祖王建が、この城を占領しようとして大敗した場所です。
韓国の一番代表的な石垣山城として評価されており、城の周りの長さは、約1.7キロメートルで、城壁の高さは13メートル、幅は8~10メートルです。この城には、西門・北門・東門跡があり、城壁のところどころには、曲城があり韓国の古代建築城法研究において非常に重要視されています。城内には、アマジと言う巨大な池があり、この周辺の岩壁には、玉筆、有似岩、アマジなどの字が刻まれていますが、金生の筆記体だと考えられています。