遯岩書院[ユネスコ世界遺産](돈암서원 [유네스코 세계유산]) - エリア情報 - 韓国旅行情報

遯岩書院[ユネスコ世界遺産](돈암서원 [유네스코 세계유산])

遯岩書院[ユネスコ世界遺産](돈암서원 [유네스코 세계유산])

17.9Km    2025-01-06

チュンチョンナム道ノンサン市ヨンサン面イム3ギル26-14

* 金長生を祀る書院、遯岩書院

遯岩書院(トナムソウォン)は、朝鮮時代の仁祖12(1634)年、現在建てられている場所から1.5キロメートル離れた里山に建てられました。
遯岩書院は 顕宗(ヒョンジョン)元(1660)年、王から扁額を下賜を受け、賜額書院となりました。しかし、立地している場所が低地にあり洪水になると水が庭まであふれてくることから、高宗17(1880)年、現在の場所である林里(イムニ)74番地(書院村)へ移築されました。
また遯岩書院は 高宗3(1865)年に行われた書院撤廃令の対象からも外れるほどの書院でした。3間の幅がある高柱の大門・入徳門(イットッムン)を入ると、正面に養性堂(ヤンソンダン)、左手に凝道堂(ウンドダン)があり、養性堂の裏手には祠宇(祠堂)があり、この他敷地内には蔵板閣(チャンパンガク)、静会堂(チョンフェダン)、山仰楼(サンアンヌ)の建物があります。
遯岩書院では地元の儒林らが毎年陰暦2月と8月中旬ごろの中丁の日に祭祀を執り行っています。
祠堂の建物の前面には1間分の広さを確保し建物の内部に食い込むような形で作られた玄関口のようなスペース・前退(チョンテ)があり、床材には瓦のように焼いた瓦板が使われています。祠堂の建物内部は井桁に組んだ板の間となっています。正面の柱の間には四枚で構成された引き戸がつけられており、建物両脇と後方の壁は漆喰壁となっています。
軒の端の重さを支えるため柱の上部に取り付ける木組・栱包(コンポ)は、二翼工外出目と呼ばれる木組の工法と同様の手法で組まれています。柱と梁が交わる隅の部分に取り付ける梁奉(ヤンボン)は伝統的な姿となっており、 柱の上部を左右につなげる木材・昌坊(チャンバン)の上に設けられた華盤型の草刻盤は柱の間に1つずつあります。
屋根の架構は退高柱を立て、退梁と大梁を掛けわたす木材は海老のように曲がったものを使います。大梁の上に一種の包台工を取り付け、退高柱とともに宗梁を支え、そのさらに上の宗梁に波蓮台工を置き、建物最上部にある上梁を支えます。
祠宇(サウ=祠堂)には朝鮮時代中期の思想家・金長生(キム・チャンソン)を主享とし同時期の文臣3人、金集(キム・チプ)、宋浚吉(ソン・ジュンギル)、宋時烈(ソン・シヨル) 先生の合わせて4人のみを文廟に祀る他ではあまり見受けられない昔の賢人を祀る先正書院です。
遯岩書院の碑文によれば、部屋、板の間、縁側、 行廊がある凝道堂があったといい、凝道堂の左手に居敬斎(コギョンジェ)、右手に精斎(チョンイジェ)がありましたが、建設当時の原型のままで残っておらず、当時どのような建物であったのか察することができないのが残念な点です。


* 遯岩書院の意義と評価

光山金氏は連山地域で代々暮らし、多くの人材を輩出してきた湖西(ホソ)地方の名門士族の一族です。
このような理由から遯岩書院は西人-老論系を代表する書院で、1871年書院毀撤令の際にも潰されず残され、今日に至っています。特に金長生が他界した後、弟子や文人らが作った遯岩書院冊版などさまざまな資料が残されています。
このように遯岩書院は、湖西(ホソ)地方(現在の忠清道)をはじめ畿湖(キホ)地域(現在の京畿道・黄海道南部・忠清南道北部)で尊崇される書院として、金長生を祀る書院の中で最も重みがあり影響力のある書院として知られています。
現在に至るまで良い状態で保存・管理がされ、地元の歴史を研究する郷土史料としても保存的価値が高い書院となっています。
加えて、湖西地方の人々の動向を研究する上で素晴らしい史料でもあり、また当時の実力者・金長生の影響力を知ることができるのもこの遯岩書院です。

* 所有 - 光山金氏宗中

国家遺産メディアアート扶余(국가유산 미디어아트 부여)

国家遺産メディアアート扶余(국가유산 미디어아트 부여)

17.9Km    2024-08-23

チュンチョンナム道プヨ郡プヨ邑プソロ13
+82-41-837-1722

国家遺産メディアアート扶余(プヨ)で開催される「泗沘演戯(サビヨンヒ)」は、泗沘遷都を行った聖王(ソンワン)が、遷都を記念して百済の強さを知らせるために開いた祝宴の当日の様子を物語にしたもので、メディアアートで演出されます。

官北里遺跡と扶蘇山城[ユネスコ世界遺産(文化遺産)](관북리유적과 부소산성 [유네스코 세계유산])

18.0Km    2024-04-22

チュンチョンナム道プヨ郡プヨ邑クア里、クァンブク里

官北里(クァンブンリ)遺跡と扶蘇(プソ)山城は、百済が538年から660年まで首都にしていたとされる遺跡です。官北里遺跡は平時に王が居住して統治していた王宮で、扶蘇山城は戦争に備えて防御壁としての機能を果たしていました。多くの百済遺跡が発掘されたこの地域には泗沘(サビ)都城仮想体験館があり、案内サービスも提供されています。

クドゥレトルサンバプ(구드래돌쌈밥)

18.2Km    2024-03-28

チュンチョンナム道プヨ郡プヨ邑ナルトロ31

クドゥレトルサンバプ、かつて百済の都だった扶余(プヨ)のクットゥレ飲食店通りにある韓国料理店で、看板メニューは石釜で炊いた美味しいご飯を色々なおかずと一緒に野菜で包んで食べる「野菜包み石釜飯」です。薬草など様々な包み野菜が提供されるヘルシーな料理です。

益山 古都里 石造如来立像(익산 고도리 석조여래입상)

益山 古都里 石造如来立像(익산 고도리 석조여래입상)

18.2Km    2024-04-08

チョンブク特別自治道イクサン市クンマ面トンゴド里

宝物に指定されている古都里(コドリ)石仏立像は、約200メートルの距離を置いて2体の石像が向かい合っています。この仏像には説話があり、陰暦12月になると年に一度だけ男女の仏像が出会い、明け方になって鶏が鳴くと元の位置に戻って行くといわれています。頭には四角の高い冠の上に平べったい四角の笠を被っています。四角の顔には細い目、短い鼻、小さな口がついており、土俗的な守護神の表情をしています。首は非常に短く、肩と顔がほぼくっついた形で、胴体には曲線はなく、腕は表現されず、手は腹部に描かれています。また、衣服には模様はなく、数本の線のみで描かれています。高麗時代には非常にシンプルに体を表現した巨大な仏像が多く作られており、この仏像もその一つです。

韓山素麯酒ギャラリー(한산소곡주갤러리)

韓山素麯酒ギャラリー(한산소곡주갤러리)

18.3Km    2021-03-24

忠清南道 舒川郡 韓山面 忠節路1173番キル 21-1

韓山素麯酒(ハンサン・ソゴクチュ)は忠清南道(チュンチョンナムド)舒川郡(ソチョングン)韓山面で醸造・生産されるおよそ1500年あまりの伝統を受け継いでいる韓国伝統酒です。味の深み、そして香りが大変素晴らしく、一度口につければその場を離れられないほどのおいしさであることから、座客酒(アンジュンペンイスル)とも呼ばれています。

素麯酒は元々、百済時代に宮中で飲まれた酒で、百済が滅亡した後、百済の遺民らがその憂さを晴らすために、韓山面乾止山(コンジサン)の周留城(チュリュソン)に集結、百済の宮中酒であった素麯酒を作り、飲んだと伝えられています。それ以来、韓山地域が素麯酒の発祥となり、韓山素麯酒と称されるようになりました。この他、『醸酒方』、『東国歳時記』、『閨閤叢書』、『飲食知味方』、『林園十六志』など、飲食に関連するさまざまな文献に記録されています。

百済観光ホテル(백제관광호텔)

百済観光ホテル(백제관광호텔)

18.4Km    2021-05-26

忠清南道 扶余郡 扶余邑 北浦路 108

百済(ペクチェ)の都の伝統と二十一世紀の未来が共存する扶余(プヨ)の中心地にある百済観光ホテル。
百済観光ホテルは素晴らしい環境の観光ホテルとして評判の宿泊施設です。洋室・オンドル部屋の客室をはじめ、宴会場、ウエディングホールなども完備、憩いのひとときを過ごせるだけでなく、様々なアクティビティにも最適なホテルです。

クドゥレ彫刻公園(구드래조각공원)

クドゥレ彫刻公園(구드래조각공원)

18.4Km    2025-03-22

忠清南道 扶余郡 扶余邑 ナルト路60
+82-41-830-2880

大王国の意味が込められた「クドゥレ彫刻公園(クドゥレジョガクコンウォン)」。
扶蘇山の西のふもとにあるクドゥレは白馬江と調和のとれた優れた景勝をなし、彫刻公園が整っていて、たくさんの人が訪れる安らぎの空間となっています。クドゥレナルは百済時代に都城だった泗沘城を出入りするような大きな渡船場でした。現在は白馬江を行き来する船着場となっており、その周辺は伝統料理や珍味が楽しめる食堂が数多く構えています。1985年度に国民観光団地としてクドゥレが造られ、古く百済人の彫刻技術を受け継いだ、この地域出身の有名な作家の作品30点と、1999年度国際現代彫刻シンポジウムに参加した国内外の有名な彫刻家の作品29点など、全59点の彫刻作品が展示され、昔ながらの情緒と現代的な美を兼ね備えた公園となっています。常に観光客のために解放されており、見る者の目を楽しませてくれます。また、ここは扶余の人々の憩いの場でもあり、「白馬江と水鳥がなき、一葉扁集、帆船を一人漕いでいく船頭」に始まることで広く知られる「白馬江月夜の歌碑」が建てられています。

なぜ「クドゥレ」というのか。
百済時代 、支配族はオラハ(於羅瑕)、百姓はコンギルジ(鞬吉支)と呼ばれていました。クドゥレというのは、「オラハ」の前に王称語「ク(大)」がつき、二語の間に持格促音の「ㄷ(d)」が入って「クドラハ」となり、更に縮まって「クドゥレ」に変遷されたと言われています。また、「クドゥレ」は「大王」を意味しており、日本書紀に百済を「くだら」と呼ぶ場面が多く表れるのも、大王国を意味し、高めて呼んでいたとみることができます。

百済文化祭り(백제문화제)

百済文化祭り(백제문화제)

18.5Km    2024-11-27

チュンチョンナム道コンジュ市クムビョクロ368
+82-41-840-8090

「百済文化祭り」(旧大百済典)は百済の首都であった忠清南道公州市と扶余郡で1955年から毎年開催されています。2015年7月に百済歴史遺跡地区が世界遺産に登録されたことから百済祭りは世界的な歴史文化祭りへと成長しています。

皐蘭寺(皐蘭湧水)(고란사(고란약수))

皐蘭寺(皐蘭湧水)(고란사(고란약수))

18.8Km    2021-11-26

忠清南道 扶余郡 扶余邑 扶蘇路1-25
+82-41-830-2623

白馬江の川岸に位置する皐蘭寺(コランサ)は、百済末期に建てられたものと推定されています。百済の王が休息を取るための東屋だったという説もあれば、百済が滅亡するときに落花岩で身投げした三千人の宮女の精神を後世に伝えるために建てられたという説もありますが、皐蘭寺についてのはっきりした記録は残されていません。寺の後方にある岩の間には皐蘭井という井戸があり、井戸の上にある岩の間には皐蘭草が生えています。百済の王は1日に1回、皐蘭井から湧き出る水を飲んでいたといわれ、水を汲みに行く家来は、皐蘭草の葉を水に浮かべて皐蘭井で汲んだ水であることを証明しました。
この地は白馬江の美しい景色を観賞するのにこの上なく素晴らしい場所です。白馬江の遊覧船に乗って水上の情趣を楽しむのもよい思い出となるでしょう。