6.8Km 0 2024-01-22
ソウル特別市カンドン区クチョンミョンロ29ギル26
1988年から現在まで2代にわたり受け継がれている冷麺の老舗。冷麺で正面から勝負する店として、メニューは大根の若菜キムチ入り冷麺、水冷麺、混ぜ冷麺の3種類といたってシンプル。ちなみに、大根の若菜は韓国伝統発酵食品の一つであるキムチをはじめ、ナムル、冷麺、ビビンバの材料にもなります。主に初夏から収穫が始まり、韓国では夏の食卓によく登場します。大根の若菜キムチとともに大根の水キムチの汁が入っているスープに氷を浮かべた冷麺を食べてみれば、冷麺特有のサッパリした魅力がわかります。ここは地元の人たちもよく訪れ、ピークの時間帯には待たなければならないほど人気です。
6.8Km 16320 2021-07-31
京畿道 南楊州市 洪裕陵路352-1
洪裕陵は洪陵と裕陵を合わせた言葉です。丘を間にはさみ、同じ圏域にあります。
洪陵
洪陵は大韓帝国初代皇帝・高宗(コジョン)と明成皇后(ミョンソンファンフ)閔氏の陵です。元々洪陵は明成皇后の陵としてソウルの清涼里(チョンニャンニ)にありましたが、高宗の死後に今の場所に移され、一緒に祀られています。高宗は興宣大院君・李昰應の次男で、12歳の若さで王位につきました。高宗は1897年、大韓帝国樹立を宣布し皇帝の位につきましたが、日本の圧力が増す中、乙巳勒約を結んで外交権を日本に奪われ、1919年に徳寿宮にて67歳で崩御しました。明成皇后は驪城府院君・閔致禄の娘で、1866年に王妃となりました。1873年、高宗の親政(王が直接国の政治を手がけること)をきっかけに政治的実権を掌握後、親露政策に不満を抱く日本人刺客に殺害されました。
裕陵
裕陵は最後の皇帝である純宗と、その妃である純明孝皇后閔氏、継妃・純貞孝皇后尹氏を合葬した唯一の「同封三室」の陵です。純宗は高宗と明成皇后の2番目の息子で、朝鮮最後の王です。民族主権を守護しようとした悲劇的な歴史の王でした。純明孝皇后は純宗が即位する前、王の後継ぎの正妻として始めてオリニ大公園付近の龍馬山の麓に埋葬されましたが、純宗の死後、陵を移して合葬されました。純貞孝皇后は12歳の純宗の后となり、1910年、日本帝国が国権を奪おうとした際、玉璽(国家文書に使われた玉で作った王の印鑑)をスカートの中に隠したというエピソードの人物です。その後、国権は奪われ、大韓帝国は滅びてしまいます。死ぬ瞬間まで温和な性質と気品を忘れなかった純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后です。
洪陵と裕陵は従来の朝鮮王陵と異なる点があります。それは朝鮮の国名を大韓帝国にかえた際、王を「皇帝」と称したほど、皇帝陵の様式に従い明・太祖の孝陵を見習って作ったことです。洪裕陵には他の王陵では見られなかったキリンやゾウ、獅子、ヘテなど多様な動物形態の石物があります。洪陵の石物は伝統的な方法で作られており、裕陵の石物は洪陵のそれよりも事実的かつ優れた手法が見られます。
6.8Km 0 2024-05-29
ソウル特別市クァンジン区アチャサンロ76ガギル9
+82-2-456-3271
建築家協会賞を受賞したNamu Hotel(ナムホテル)は、独特かつ特色のあるデザインのホテルです。メインの出入口は道路側ではなく、路地側にあります。また、すべての客室は面積や構造、家具の配置が異なり、ほとんどの部屋にはバルコニーがあります。外部の視野から保護されながらも都市の風景を眺めながら季節や天気、日差しや風を楽しむことができるようになっています。屋外にある浴槽に浸かり、自然を観賞しながらゆったり休息することができます。
6.9Km 8738 2024-08-01
ソウル特別市カンドン区クチョンミョンロ77
+82-2-476-0722
広津橋(クァンジンギョ)の道路の直下、8番橋脚付近にある広津橋八番街(パルボンガ)は、最高の景色の中、公演や展示を楽しめ、またさまざまな文化コンテンツを作り出すとともに人々の文化的感性を満たし、憩いのひとときが楽しめる文化空間です。
ガラスの壁となっている外側には、涼しげな風に吹かれながら漢江の素晴らしい風景を眺められるよう展望台の道が作られています。
広津橋のたもとにある漢江公園クァンナル地区には自転車公園などがあり、広津橋を含む地域全体が一つの憩いの場となっています。
6.9Km 7947 2023-06-19
キョンギ道ナミャンジュ市チンゴン邑サルンロ180
思陵(サルン)は朝鮮王朝時代最も悲運の女性、端宗の妃・定順王后(1440-1521)宋氏の陵です。
定順王后は1453年王妃に揀擇(多くの候補者を宮殿の中に集め、王、王子、王女の配偶者を選ぶ行事で選ばれること)され、翌年王妃になりました。
端宗が首陽大君(世宗)に王位を奪われ寧越に流されると定順王后も格下げになりました。その後端宗が亡くなると東大門の外にわら葺の家を建て一生夫を思いながら暮らしました。よって墓の名前も「思陵」になったとされています。
思陵は王妃の陵で、他の陵に比べこぢんまりしていて簡素です。陵の規模も非常に小さく、屛風石(陵を保護するために陵の上の周囲を屏風のように立てた四角形の平たくて大きい石)を置かずに文人石(陵の前にたてる文官の形に造った石)や石馬(陵の前に石でつくった馬)のみがあります。